石井

2017年9月10日 日曜日

重陽の節句

朝夕の涼しさが明確に肌で感じられるようになってきたこの季節、皆様いかがお過ごしでしょうか。
ご無沙汰しております、社員の石井です。

さて、タイトルにさせていただきました重陽の節句、これは私がブログを書いている九月九日のことですね。
奇数である「陽」の数字の最大数が「重」なるため、このように呼ばれるようになったそう。

旧暦では一か月ほど先の時期にあるため、「菊の節句」、あるいは「栗の節句」とも。
菊を飾って鑑賞し、菊の花をお酒に浮かべ、魔を祓って長寿を願ったそうです。
五つある節句の一つである七夕などと比較してなんとなくなじみが薄いような気がするのは、新暦の九月九日が菊の開花期とずれてしまっているからでしょうか。

また、二十四節気では、この時期は「白露」。七十二候では「草露白し」というように、朝露が目立ち、朝夕の涼しさが際立つ時期ですね。



前述した旧暦はご存知「月の満ち欠け」をもとにして作られたものであることに対し、12か月の倍つまり15日ほどで切り替わる「二十四節気」とさらに三分割、つまり五日ごとの「七十二候」は、現在の暦と同じ太陽歴をもとにして作られていますから、昔から農耕などの目安に使われていたようです。数字で数えるだけではなく、季節の特徴を熟語や文章で、さらに事細かに感じることで、より季節と親密に生きていたのでしょうね。

そんな日本人の細やかな感性があらわされた七十二候、「草露白し」の一つ前の候は「禾物登る(こくものみのる)」。



まさに実った穀物が穂を垂らすその風景に包まれて、また一つ住まいのお庭が竣工しました。



鋸南町の田園風景を見下ろす立地に建てられたこのお住まいには、三世帯のご家族が和やかに暮らしていらっしゃいます。




南側のお庭。存在感のある既存樹木と連なっていくように考慮して、こちらにも木立を点在させます。



古材を用いて施工した物置小屋も景色に溶け込みます。



この小屋の屋根も、トタン屋根の縁に枝を挟み、もみ殻燻炭や炭を入れて軽量化した土壌を重ねチップで保護することで、将来的に土壌にあった草本が生育できるようにしています。



田園へ傾斜するのり面にも、地形に配慮した道を作ることで庭の一部とし、空間に連続性を持たせます。
近所のお子さんたちのいい遊び場にもなっているようです。



お施主さんにもいい意味で驚いていただけました。
田園沿いの舗装道路は車の通りも少ないので遊び場にもなりますし、また住まいの二階などからも目が通せるとあって、子供たちを安心して遊ばせることができるといっていただきました。
お子さんのお友達(まだ二歳で!)もここを精一杯の力で登って遊んでくれているようです。



このお宅は土手の縁に平地を作るように造成されていたため、植栽時には転圧された土壌にハンマドリルで縦穴を開け、土壌をほぐし、改良剤をすきこんでの植栽となりました。



そして、枝葉を用いてしがらみを作り、周囲の地面より一段高い木立を作ることで側面からの通気性、浸透性も寄与します。



植栽、マルチング後の表情。やがては通気性を十分に担保した落ち着いた土手に変化していくことでしょう。



玄関側の駐車場は、瓦チップ、ウッドチップを交互に敷きならすようにして通気、浸透性に配慮し、家側の主要な部分に木立を。


最初にアポイントメントをいただいてからはなんと四年弱の月日が経ってしまったようです...。
これほどお待ちいただきながらも最後には大変喜んでいただき、私たちも三世帯のご家族に喜んでいただけるお庭を携わることができて、とってもうれしかったです。庭師(見習い)冥利に尽きます。

これから、この住まいとお庭に囲まれたご家族がのびのび朗らかな暮らしを送られることを心より願いたく思います。
また、これからお庭のお手入れを通してその一端をサポートさせていただければ嬉しい限りです。
本当に、ありがとうございました。


これからの工事を、年単位でお待ちいただいているお客様、大変お待たせしております、もうしばしお待ちください。
現代に生きるお施主様方に求められる健やかな住環境とは何か、それを会社一同追求し続け、設計段階のプランを凌駕する住環境とライフスタイルをお客様に届けられるよう、日々精進していきたいと思う次第です。

白露、とはいえまだ残暑の激しい日もあります。涼しくなってきたことは喜ばしいですが、寒暖差の激しい季節は体調も変化しやすいということでもあります。
皆様も移り変わる季節に耳を傾けて心身への配慮をご考慮ください。
ありがとうございました。

投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | 記事URL

2017年5月14日 日曜日

立ちあがる夏

三寒四温を感じながら春を待った時期はとうに過ぎ去り、もはや梅雨をも追い越して姿を見せそうな夏の気配を日中の仕事中に感じるこの(千葉の)季節、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
入社してから、まさに瞬きと呼べるような速さの二年が経過しました、社員の石井です。大変久しぶりの更新になってしまいました。

今回のブログは、一年ほど前と同様に五月の連休にて経験したことを書き連ねていきたいと思います。



今年のこの連休は、信州は木曽福島を訪ねました。冒頭の写真は御嶽山中腹(ロープウェイ終着所の飯森公園駅)より頂上を仰ぎ見た写真になります。
雪山です...。場所によってはひざ下まで残雪しています。

早くも訪れた猛暑に辟易しているかもしれないブログ読者の方々の視覚にまず訴えることで、体感的に少しでも涼やかになっていただけたらという試みです...。(冷涼な環境下でご覧の皆様すみません。)
また視覚的な試みといえば、私のブログは振り返ってみると毎回文章のボリュームが多すぎるので、今回は写真に対してのキャプション程度に文章を納めていきたいと思います...。




とにもかくにもまずは中央道で現地へ。関東の方は新緑が美しいですが...




信州に入り目的地付近のインターチェンジを降りたところ、桜吹雪が散っていました。
まだ満開に近いです。今回は関東で新緑、長野でお花見、御嶽山で雪遊びと時を遡っているような感覚になりました。




そして、木曽福島駅付近に到着。高田造園のワークショップでお世話になっている方のもとを訪ねました。
長野県の南西部に位置する木曽福島は、西に木曽御嶽山、東には中央アルプス・木曽駒ケ岳に挟まれており、街の中央を木曽川が流れています。(上写真の河川)
河川に張り出すような建物は、現地の方が「がけづくり」と呼んでいる作り方のものだそう。




かつて木曽福島は多くの旅人が歩いた中山道の中心部で、耳にしたことがあると思います「木曽路」とはこの近辺の道を指します。
江戸時代には江戸護衛のために設けられた四大関所のひとつがあるため宿場町としても高名です。




御嶽山は、標高3067mの独立峰であり、山岳信仰の山としても知られています。



今回の訪問の目的のひとつでもある、整備予定の古道を見学、案内していただきました。修験道に用いられたルートだそうです。
日が暮れたところで本日の予定は終了、温泉と旅館で季節の食事を頂き、翌日は二日目にして最終日です。



宿泊した宿の近くには御嶽信仰を広めた立役者の一人である覚明行者の霊神碑が在りました。
朝の一礼をし、車で御嶽神社に向かいます。



道すがら、御嶽湖に御嶽山が!くっきり写った姿と青空が絶景です。



本日最初の目的地、御嶽神社へ。写真に写るのは今回木曽福島をご案内していただいた方とその柴犬あっくん。
木曽福島の復興にも努められています。



ヒノキなど荘厳な雰囲気の針葉樹林内に設けられた石段を登ります。
樹木に詳しい方なら耳にしたことのある「木曽五木」という言葉は、江戸の繁栄に伴う過伐採により荒れた木曽の山を保護するため、尾張藩が指定した伐採禁止の五木(最初に指定されたヒノキ、アスナロ、ネズコ、コウヤマキ、サワラ)の事です。
興味深いのは、五木指定後、さらにクリ、マツ、ケヤキ、トチ、カツラ等をも伐採禁止とした事項。生産性が高く重宝された針葉樹のみならず落葉樹も保護することが、森林の多様性・健全性を維持するにあたって重要だと見抜いていたのでしょう。
その後木曽の山は美しさを取り戻し、現在に至っては木曽五木によって製作される木器が特産品となっています。また寒暖差の大きい気候が漆塗りに適していることから、木曽五木で作られた漆器も有名です。



長い石段を登りきり、里宮本殿拝殿に一礼。
本殿の写真は撮れませんでしたが、こちらはその周辺に見えるきりだった地層です。
地下水脈をたどってきたお水は最高においしい!



神社を出た後は、車で少し走り、清滝へ!
御嶽山はその急峻な地形、降雨と豊富な樹林帯が蓄える地下水等の理由から「滝の山」と呼ばれるほど。
この清滝と後述する新滝は御嶽教の行場としても使われていたため、今での滝行ができるように更衣室などが設置されています。



自然散策をしながら一尾根超えて、新滝へ。両方の滝とも、とにかく高い!(iphoneにてパノラマ撮影)



新滝は滝の裏側にも回れます。



このようなところにも霊神碑が。
御嶽山はいたるところに霊神碑があり、その光景はほかの山には見られない異彩さをも感じさせます。



この時期の信州と言えば、そばと山菜でしょう!ということでお蕎麦屋さんで昼食です。
山菜のやさしい苦みがしみて、冬にたまった毒素が抜けていく錯覚を覚えます...



その後は御嶽ロープウェイでパノラマを堪能。山を見上げれば冒頭の写真ですが、振り返れば乗鞍岳や穂高連峰、木曽駒ケ岳が望めます。



そして駆け足で開田高原へ。この急峻な山々の間にある高冷地では、馬に乗ってみたり...



最後に木曽福島に戻ってご挨拶をして、一泊二日の長野旅を終えました。
木曽の豊かな環境を尊敬する友人と考察しながら体験できたことはこれからの仕事に確実に返ってくるであろう収穫です。

ご案内してくれたきっこさん、その柴犬あっくん、有難うございました。

それでは、また次回でお会いしましょう。皆様も、水分補給を欠かさずお体に気を付けてお過ごしください。




投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | 記事URL

2016年8月 7日 日曜日

東司

題にもつけました東司(とうす)、御間中(おまなか)、樋殿(ひどの)、要処(ようじょ)・・・・

御不浄、手水場、雪隠(せっちん)、厠・・・・

お手洗い、WC(water closet)、化粧室、洗面所・・・・



最初は?な方も、雪隠あたりから、これらの用語が意味する共通の施設が頭に浮かんでくるのではないでしょうか。
そうです、これらの単語すべて、日本におけるトイレを意味する言葉なのです。

ちなみに題にもしました東司、これは主に曹洞宗などの寺院におけるお手洗いの呼び方として用いられています。(臨済宗では雪隠というそうですね)
東司は、七堂伽藍(伽藍づくりに欠かせない主要建物郡)のうちの一つに入っており、いかにお手洗いというものが重要ととらえられてきたかがお分かりになると思います。


もし万が一本ブログをご覧になりながらお食事されている方がいましたら申し訳ありません、そしてご挨拶もなしに執筆を始めてしまったことを重ねてお詫びします。
梅雨も明け炎天下の日差しが厳しく、いくら水を飲んでも汗として全て出て行ってしまうようなこの時期、皆様いかがお過ごしでしょうか、従業員の石井です。

冒頭からもご察し頂けますように、今回は、トイレの事について投稿させていただきます。

と、言いますのも・・・・



こちらは、8月6日に行った、NPO虹のかけ橋様の敷地内に作りましたバイオトイレです。

高田造園では、最近、バイオトイレづくりのワークショップが非常に多く、上記のみならず今年度すでに五つ以上のトイレづくりを行っています・・・



私たちの作るトイレは、土中に排泄物を還元させるバイオトイレです。通気浸透性に配慮した素掘りの穴の上に足場を渡し、最低限の風雨が防げる屋根を葺きます。
排泄後は炭や有機物を被せることで悪臭もせずハエもわきません。
土中の微生物の力で大半を分解させます。くみ取り穴を設けてはいますが、よほどの頻度でなければくみ取る必要がない程です。

どの時代でも必要だったトイレ、人間である以上生理的に不可欠な行為を、生活する自然環境に寄与する形で処理する、今回はそのイベント報告をしつつも、トイレについて少し考える回とさせていただきたく思います。
(バイオトイレデザイン事例集となりそうな今回です・・・・)




最近特にトイレづくりのワークショップが多いということでしたが、こちらは日付を少し遡りまして4月に造ったトイレになります。



家づくりの授業等でもお世話になっておりますおなじみ千葉県長生郡の千の葉学園において、感受性豊かな元気いっぱいの子供たちと造りました。
屋根材には竹を半割にしたものを交互にかぶせて、壁材にはシノダケを用いています。写真はその下準備の様子ですね。





そしてこちらは千葉県夷隅において自然農を行われている方々「風の谷ファーム」に施工中のもの。現在第四日曜日に拠点としている古民家周辺の環境改善連続講座を行っており、その一環として作りました。
構造は講座の際に作ったのですが、その後子供たちがつくった看板などがほほえましいです。



水脈環境の整備や皮むき間伐による健全な混交林の育成等も行っています。





そしてこちらは、山梨県北斗市、ダーチャ村推進に取り組んでいます、五風十雨農場にて施工したバイオトイレ作成途中の様子です。
こちらもワークショップとしてたくさんの方々、子どもたちと協力して進めさせていただきました。この施工の他にもダーチャ小屋の焼き杭基礎づくりと同時進行で行っています。
完成写真を撮り忘れてしまって申し訳ないのですが、焼き杭による構造と、板材による屋根葺き、針葉樹の樹皮による棟仕舞としています。



振り返ると山々を展望できる抜群のロケーションに、いよいよダーチャ村づくりが本格的に始動しました。





そしてこちらは冒頭でも紹介しました千葉県は館山、NPO虹のかけ橋様の敷地内にて施工中の様子です。



NPO虹のかけ橋は震災後に発足した団体で、被災地の子どもたちを、豊かな環境で思いっきり遊ばせたい、という思いで設立されました。
年に一度、子どもたちが遊びにやってくるようです。過去にインターナショナルスクールとして活用されていたこともあってか、集まるスタッフの方々もグローバルな方が多く・・・・
施工中や食事中には、英語と日本語が混じって飛び交うという今までにない雰囲気の楽しいイベントとなりました。
ランチにはバンブーをハーフにして、ヌードルをフォロウィングして頂きました。・・・・。



そしてこちらは現在施工中の事務所のバイオトイレです。壁材には建仁寺垣になどに用いる割竹を再利用し、屋根には波板の上に芝棟とする予定です。


様々なバイオトイレを紹介させていただきましたが、上記のバイオトイレは、事務所のものを除いてほとんど周囲の自然環境からとってきたものや、弊社の余りものの木材を用いており、材料費はほとんどかかっていません。

その場にあるものを用いて、しかもそれを用いたことによって環境がよりよくなるように採集し、最低限の機能を果たす構造を満たすように施工し、壊れたらまた補修する。
そのサイクルが、周囲の環境に根ざす、寄与することは考えるまでもないと思います。

私にとっての「庭」というものは、「心身が健全に生きていくために必要な空間」と捉えたい、とかんがえるようになりました。
突き詰めていくとそこには、ケの場であり、行為であり、しかし切り離せないトイレという空間があるかもしれないとも思うのです。
そのトイレが、現在のインフラ任せのものではなく、その場をよくするためのものにしていける、そしてそれに携われるいうことは、私の造園的な価値観にとってはこれほど光栄なこともないと感じています。

仕事もワークショップも、頑張っていきたいと思います。その中で生まれるこれからのご縁を楽しみにしつつ感謝して、今回の投稿を締めさせていただきたく思います。
有難うございました。











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2016年6月28日 火曜日

積み重ねる

高田造園スタッフブログをご覧の皆さん、梅雨敷きで天気も不安定の中、晴天時にはいよいよ暑さが夏を意識させる今日、いかがお過ごしでしょうか。社員の石井です。

私たち高田造園の最近はといいますと、出張が多く続いておりました。



こちらは先日竣工となりました、信州は上田の名所「鹿教湯温泉」、その温泉街に立地するお施主様のお庭です。現地の方の協力もあり、二週間足らずで完成となりました。
広大な敷地内にあった枝葉をしがらみとしたり石材を積み上げることで、台地状に造成された地形の法面に対して段を作って植栽スペースや園路を設けたお庭です。




そして、九州は長崎にも赴かせていただきました。写真は有明発のフェリーから見た景色となります。
現地で用意できない資材や道具、車両を運搬するため、車両ごとフェリーに乗り、九州は新門司港まで丸一日と半日かけて向います・・

造園工事としてはまだ樹木も一本も植わっていない状況ですので、写真は続報をお待ち下さいませ。



長崎出張からの帰りは、荷が軽くなったため高速道路での帰路となりましたが、その経由地として空いた時間運良く訪れ見学することができました京都の庭園についてご紹介したいと思います。



京都は嵯峨野、その美しさで有名な竹林を抜け、名園天龍寺を過ぎたあたりに、その庭園はあります。



「大河内山荘」です。
時代劇における当時の名俳優大河内傳次郎(1898-1962)が、百人一首で著名な小倉山の南面に、34歳であった昭和6年から64歳で逝去するまでの三十年の歳月をかけ、「消えることのない美」を求めてこつこつと創りあげた回遊式の借景庭園です。



最初に入館料(1000円)を入り口で支払い、サービスのお抹茶とお菓子をお抹茶席でいただいてから庭園を観賞することができます。
庭園の紹介と平面図が記載されたパンフレットには季節の写真が印刷された絵葉書が付属しており、拝観料を含めてもお得感のある料金体系となっています・・



順路の入り口でもある庭門



蹲もいい風情を出しています



門をくぐり、まず見えてくるのは、「大乗閣」です。
後に登場する建築物群の建てられた後、土地を買い足し構想10年、東の比叡山と西の嵐山との関係に着目した傳次郎が、数寄屋、書院、神殿、民家という日本の全住宅様式を網羅した建造物を数寄屋師・笛吹嘉一郎依頼し、戦争の悲しい時代を迎えつつも着工に踏み出し1941年に完成したものです。



それぞれの間の屋根の葺き方を変えることで様式の違いを表しつつもその様式を厳格に踏襲することはせず、それでいて一つの建物としてまとめ上げるところに、数寄屋師ならではの柔軟な姿勢が見える建築といえるでしょう。ちなみに茶室の間は国宝・如庵の忠実な写しとしています。嘉一郎が如庵の移築に関与していたからこそ可能だった建築といえますね。



大乗閣の濡縁からは嵐山と比叡山、そして古都の風光を感じることができます。
これを機に傳次郎は庭師・広瀬利兵衛とともに山荘の創作に明け暮れました。



視線を遮断、誘導されるかのような混垣や植栽に誘われてその先へ。



景色が広がりを見せたところに姿を現すのが、この敷地に最初に建てられた建造物、持仏堂です。傳次郎はこの小倉山の竹藪の奥に数百坪の土地を求め、関東大震災からの念願であった持仏堂を建てます。(1931年)
撮影の合間にここで念仏、瞑想し、静寂を得たことが、この山荘のすべての始まりだったのです。



その後また園路を歩きます。緩やかな斜面を登りながら絨毯のように美しい苔に導かれると・・



「滴水庵」です。
先述の持仏堂において仏と向き合う中で、(当時はフィルムの長期保存が難しく)映像が見た人に記憶にしか残らない映画芸術に「無常」を感じ始めた傳次郎は、当時親交のあった鹿王院の禅師・独檀和上より滴水禅師ゆかりの茶室を譲り受けます。(1932年)これがきっかけとなり、傳次郎は形に残る庭創りに芸術性を見出し、それにのめり込んでいきました。



精緻な軒内の作り込みが美しいです。



赤松と紅葉だけで作られたこの庭園は、後に建てられる大乗閣の習作となったようです。



そして、閉鎖的な園路を登り続けると・・



あらわれた四阿から、京都の街並みとそれを囲う山々、その盆地の様相が一望できるのです。
視線を隠し続けてのこの演出には、桂離宮に似たものを感じます。



下りの園路も景趣に富んでいて美しいです。



最後は大河内傳次郎の関連品が収められている記念館を拝見して、この庭園を後にしました。


私は一般的なイメージの「日本庭園」というものが高校時代から大好きで、京都の日本庭園も期を見つけては見学に赴いていたのですが、中でもこの大河内山荘と修学院離宮は非常に大好きです。

人それぞれ、庭園の好き嫌いの評価は分かれることと思いますが、私は「その庭園にどれだけ施主の命が入り込んでいるか」一つの評価基準にしています。
当時大スターだった傳次郎の出演に関する収入がほとんどこの庭園に詰め込まれている上、逝去するまで自ら庭づくりに携わり続けたその30年という積み重ねられた歳月が、その熱量を物語っていると思うのです。

お庭という空間は、そこに住まう、かかわるいのちに心を配るものでなくてはならないと思いたいのです。そのためには植木屋見習いたる者、施主の方が望んでいることは勿論、施主自身がわからないほどの、深層心理のような部分で望んでいたことすらも反映できるように精進しなくてはと改めて思い直した次第です。


それを思わせてくれた、この稀代の名園の施主であり作り手である大河内傳次郎の、自身の人柄を表すような、造園のみならずすべての「職」に通ずるといえる言葉でもって、今回のブログを終わらせていただきたいと思います。




「芸の上手いといふも下手といふも、ほんの僅かの差である。
その差は決して技巧の差ではない。
その人の人柄からくる無技巧の差である。」



有難うございました。

投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | 記事URL

2016年5月 8日 日曜日

大宮、山登り、琳派

連休もあけて、日中の異様な蒸し暑さがいよいよ外仕事にはうっとうしく感じてくるこの頃、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
高田造園の石井です。

作庭のお待ちいただいているお客様方には申し訳なく思いつつ、高田造園も五月の頭には連休をいただき、私も連休期間中は、普段の週末ではできない知識や経験を養う時間あるいは家族と過ごす時間として活用させていただいています。

今回のスタッフブログでは、(といってもやはり毎度同様の形式ですけれども、)連休期間中に訪れた場所を紹介させていただきます。



連休初日の五月一日は掃除や自炊の作りだめ、帰省の準備を行い、その荷物をもって五月二日、日本百名山が一つ大山の山塊のまた一つであり表丹沢最高峰の塔ノ岳と、そこから縦走ルートを経て鍋割山に赴きました。


登山途中、まばゆい程の新緑の雑木林

前回丹沢に赴いたときは大山を伊勢原市側から阿夫利神社経由で登山したため、今回は違うルートを、と思い、塔ノ岳に登山することにしました。
ルートは、大倉より「バカ尾根」と呼ばれるひたすらに長い尾根を登って、塔ノ岳山頂へ、そこから少し戻って金冷シの分岐点で鍋割山山頂へ縦走して、西山林道を経由した高低差の少ないルートで下山、という計画です。
駐車場が営業を開始する八時半を目安に現地へ赴き、いざ丹沢へ。


ビジターセンター付近にいた、人に慣れているツバメちゃん

今回は野鳥観察というのも一つ目的に定め、安物の双眼鏡を購入して、所持していた野鳥図鑑で少し予習して、それに付属していた鳴き声のCDを車でかけながら現地に赴いたのち登山したのですが、恥ずかしながら予習不足のため、大した成果は得られず...


山道入り口付近にあった釜場


開けたところから

丹沢に限った事ではないと思われますが、人工林の杉林を混交林にする働きが最近活発なようです。

晴れていたのですが、雲行き、が、怪しい...


その名の通りな、ヤブレガサ(以前のブログでもアップしたかもしれません)
大学時代にサークル活動で植栽したこともあって少し思い入れがあり、個人的に林床に見られるとうれしい植物のひとつです


ジュウニヒトエかなと思って近づいてみましたら、キランソウでしょうか


柔らかな樹形のハナイカダ。最近よくお客様の庭にも植えさせていただいています


根の下のキノコ型地形と谷

自然は風水の流れが激しい環境を自律的に整えようと谷を掘るようです。
雨から守られたキノコ型地形の下にはうっすら地苔が、なだらかな斜面になった谷の地表の落ち葉が根っこによって捕捉され、実生木がちらほら。


モミジの巨木と、植樹されたモミジのトンネルをくぐって、ひたすらに長い長い階段を振り返ります...まだまだ長いです...


一人寂しい登山中ずっと付き合ってくれていたスミレが、白色に

後ろを歩いていた元気なおばちゃん登山グループの先頭の方がおそらくこのスミレをみつけて、
「ちょっとヤダ見てこれ私みたいかわいいい」「白いスミレよお」
一人寂しい登山でしたが、声を出して笑いそうになりました。私もいくつになってもそのような感性(=センス・オブ・ワンダー、なのでしょうか...?)を持ちたいと思います。


長い長い尾根を登り続けると、標高を感じさせる植生、山肌になってきます
く、雲が...


そして、長い長い尾根を経て...

山頂に到達しました!...


山頂の周辺と、そこからの景色です!


雲が...すごい幻想的でした...




天気が良ければ富士山、相模湾が一望できるといわれるこの標高1490mの塔ノ岳の山頂からのこの日の景色は、少し歩かなければ目の前にある大きな山小屋の存在にすら気づけないほどでした...

そして来た道を戻り、鍋割山を目指します。


この縦走ルートは、美しいブナの原生林に囲まれながら山頂間を歩くことができます


頂上付近では、マメザクラでしょうか、スポーツドリンクをお酒代わりに、遅れた花見を楽しめました


そして、鍋割山頂です。例によって頂上からの眺めはご想像通りですので割愛します...


鍋割山頂の山小屋「鍋割山荘」
ここの...

鍋焼きうどんが名物らしいので、それを注文。評判通りのおいしさでした!


頂上のトイレは、微生物を嫌気発酵させるバイオトイレのようです


そして、西山林道経由で下山します。このルートは傾斜が穏やかで車が登れるほどの整備も進んでいるため、あまり山の多様な植生や地形が楽しめるわけではありませんが登りやすく、沢沿いを登っていくため水辺の特有の景色は楽しむことができるようです。


このような場所には、やはりフサザクラが似合いますね


ブラシの先のような可愛い白い花のウワミズザクラ

これよりさらに下っていくと、あとは緩やかにカーブするワンパターンな整備通を下ります。
様々な植物が新緑を広げるこの季節、中腹から山頂付近の雰囲気があまりに気持ちよくて、これ程山から下りたくないと思ったのも初めてでした。
登山は丹沢に始まり丹沢に終わる、という言葉があるそうですが、僕のような素人が楽しむ日帰り登山から、一泊以上の宿泊もできる西の丹沢の奥深さなど、本当にいい山塊だなと感じました。
今度は別の百名山を登るのも面白そうですが、丹沢の深い方にも行ってみたいなと感じました。




そして三日は家族と静岡へ。浜松は弁天島に昔母方のおばあちゃんが住んでおり、お墓参りや親戚の方へのご挨拶のついでに観光をしてきました。
東名高速からの足柄SAの道程などは、子供のころピックアップトラックで走った思い出のルートでもあり、昨年の三ケ日出張の際も通ってきたものでもあり、複雑な気分で浜松へ。


挨拶回りの際に撮影させていただいた、おばちゃん家の玄関先。突然の訪問だったためご挨拶だけしに来ましたという母に対し、
「ひさしぶりだにー寄ってきなさいよお茶位だすわよ、寄ってかないならなんかもってきなさいよこれソラマメと玉ねぎと...
あ!うなぎがあった!(このとき隣の親戚の方が保冷材と野菜を抱えてきてくださいました...)
もー畑まで行けばもっといい玉ねぎもあるでよーお茶位してきなさいよー」
会話までとっても有機的で、心温まります。


そして浜から海を臨んで、浜名湖ガーデンパークへ。ここは、2004年に行われた花博の会場跡地として整備された都市公園で、市民や行政がともに育てていく公園を目指して管理運営が行われていることが特徴です。


右に見えるのは展望台のきらめきタワー


登ってみると、園内や遠景が一望できます。少し終わりかけのネモフィラ花壇にかかれた絵もきれいです。


ただの展望台と侮って登ってみたら、園内の植物や構成を俯瞰して楽しめる高さを持ちながらも、眼下の人たちのしぐさや行動もわかる絶妙な高さに配置されていて、園内で一番感心させられた構造物でした。









国際庭園エリア。ここには、延べ10か国以上の庭園の様式(と思われます)が縮小されて再現されており、とてもユニークな空間になっています。
さすがに構造物に若干のチープさと植生の再現に限界を感じるところはありますが、それぞれのスペースに適度な目隠しを設けて高低差や小休止できるスペースを配することで空間ごとに落ち着けるスペースを造っています。
そしてその庭園同士の間に、周辺の環境ではめったに見られない品種物からありふれた原種系の植物等が科ごと等に固まって植えられたスペースがあり、植物の標本的なコーナーとしています。

連休期間中のイベントの不充実さなど、なかなかこれだけの箱全体の活かし方としては考える余地を残しているような公園でしたが、基本入場料無料でこれだけの植物や開放感のある芝生を楽しめる空間があるというのはそのような利用を主とする人にとってはありがたい場所になっていると感じました。



四日は、大宮は盆栽村で盆栽祭りへ。



ここ盆栽村は盆栽の歴史ある会社が多く存在することで有名で、五月の連休中には露店などに実生木や鋏、鉢などが売り出される盆栽祭りが毎年行われ、国内外問わず様々な観光客の方でにぎわいます。特に盆栽は今ドイツなど海外でも人気が高いそうです。

盆栽の、樹木を最小単位で管理するその手法は、鉢の用土の敷き方から水やりに至るまで、地球の営みの縮小系である、ともいわれます。雑木の庭は、庭単位でありいわば人間がその空間の中に入って自然を体感するため、スケール感や雰囲気の出し方に関していえば異なる点が多いですが、同じ樹木を扱う分野として共通する、勉強になる部分も多くあります。
会社の畑のどうせ育たない場所に生えた実生のモミジなどを移植して植えてみたりしてからというもの、盆栽という分野に少し興味が増し、また由緒ある盆栽の会社に大学時代の友人が就職していたため、その友人に挨拶も兼ねて、まつりに赴きました次第です。
一日では見切れないほどの露店やイベントが催されており、大変有意義な時間を過ごせました。有人の勤めているところで購入した鋏等を早く使ってみたいと高揚感が後を引きます。



恥ずかしながら、私の処女作です...。
畑の実生のモミジをポットに移して一年育てたところ、数センチしか育たなかったため、拾った朽木に赤玉土を入れ苔を張って植えなおしたところ、僅か二週間で、昨年の生長を上回る伸長を見せ、葉の状態も驚くほどよくなっています。
昨年度はポットに残土のような排水性の悪い土を詰めてしまったのが良くなかったのでしょう。
今回購入した道具や肥料などで、大切に育てていきたいと思います。
いろいろ教えた頂いた大学時代の友人に感謝です。


四日はそこから表参道に向かい、根津美術館へ。



根津美術館は、東武鉄道の経営でも名をはせた実業家であり、近代数寄屋でもある初代根津喜一郎のコレクションが展示されている美術館です。
元は長谷寺の土地と言われるこの場所の谷地形とそこからの湧水を存分に生かして作られた美術館、茶室や庭がありました。海外への美術品の流出を食い止めようと豪快に集めたコレクションを市民とともに楽しもうとしましたが志半ばで亡くなった初代の思いをついで、二代目が美術館を開館させるも、同年に起こった空襲によりここ近辺一帯は一度で灰に帰しています。(コレクションは疎開により無事)
焼け野原からの美術館及び庭園の再生に関しては、茶室の藤森豊、露地の風間宗丘が深くかかわっており、斑鳩庵などにおいては同じく近代数寄者の益田克徳などが関与しているなど、復興されたものとはいえ近代造園史を語るうえでは外せない庭園と言えるでしょう。また近年建設された展示館の建築は隈研吾が行っています。


庭園内の美術品もコレクション

この時期根津美術館と言えば、尾形光琳の燕子花図屏風が展示されるうえ庭園内にも燕子花が咲き誇ります。
東京出身でありながらこの時期の根津美術館とその庭に行ったことがなく、これまた恥ずかしながら、高田さんの元弟子の方や尊敬する庭師の方々から「琳派」(美術史における一つの流派)の話題が出た際あまりの無知さを露呈してしまったため、琳派の代表者の一人と言える光琳の絵が見れるとあって赴きました。


まずは庭園、メインの燕子花を
改修後の現在も高低差と流れを活かした庭園構成がとられています


流れに浮かぶ小舟(実物は写真で見る以上に小さいです)


井筒から湧水が


静寂な雰囲気に包まれた園内

雰囲気は、場所場所でいい場所もありますが...


かなりの木々に、枝枯れ等の跡が見られました。

表参道という大都会で周囲が開発の波から逃れられない、来客が多いなどの難しさから、木々にとって善い環境を保つことが難しいということは容易に推察されます。
高低差の土留めなども、通気排水に配慮しているとは言い難い方法で改修されていたり、根津喜一郎が好んだこの谷地形の恩恵に育まれた庭の精神性は、現代との兼ね合いの中でどう保ち続けていくのか、大変難しい課題でもあると感じました。


そして、本館へ。美術品は撮影が禁止されていますので端的に説明のみで紹介させていただきます。


前述したようにこの時期展示される国宝燕子花図屏風は尾形光琳の描いた屏風で、伊勢物語の一説、故郷を思う主人公がかきつばたの五文字を句に呼んだ場面に基づくと考えられています。
尾形光琳は、京都の呉服屋に生まれ、当初狩野派を学んだのち、俵谷宗達、本阿弥光悦の作品に出会い、その様式を確立させていきます。
琳派と言えば、前述した創始者として宗達、光悦、そして半世紀後にそれを見出し感銘を受ける尾形光琳、乾山兄弟、そしてさらに半世紀後に頭角を現す酒井抱一の三者が名高く、琳派の作品にみられる特徴としては、やまと絵の技法を基盤に、絵師ごとの解釈で大胆な構図やデフォルメされた植物や動物たちの絵としながらも、けっしてそのらしさは失われないというようなことが言えるのではないかと思います。精神性や背景としての特色を挙げるとすれば、同時代活躍した狩野派とは異なり、血統などに依存しない継承のされ方が特徴と言えるようです。創始者と言える宗達えお光琳が、光琳を抱一が、という様に、その間には半世紀ごとのスパンがありますが、各人が先人を見出し敬意を払うとともに行われる模写も、一つの特徴と言えるようです。三人の各人ごとに微妙に異なるニュアンスで書かれた風神雷神図屏風もあまりにも有名ですね。




大変に長くなってしまいましたが、連休期間は、様々な場所に訪れることができ、これまでの連休の中でも特に刺激的な連休を過ごすことができました。

盆栽にしろ庭にしろ琳派にしろ、そしてあるいは山登りにしろ、「自然」と「表現」は切っても切れない関係にあるようです。
見るからに自然環境の劣化がすすむ現代において、それはどのように活用されるべきなのか、エゴイズムと表現、必然性など、どこで折り合いをつけるのが良い造園なのか...
悩みは尽きませんが、この連休で得たものを糧にして、また精進していきたいと思います!



投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | 記事URL