石井

2016年4月 4日 月曜日

梅に鶯、桜に幕

日中の暑さが春を通り越して初夏をも感じさせるようなこの季節、いかがお過ごしでしょうか。入社して早一年になります、石井です。
関東では桜が見頃を迎えていますね。先日の土日は天気が不安定でしたが、この週しかないとばかりにお花見に行かれた方も多いのではないでしょうか。



私もその一人でした。あまりぱっとしない場所の桜ですが、私が大学生だったころよく通りがかった少し思い入れのある駅前の公園の桜です。こんな地味な公園ですが、桜を見上げにわざわざ立ち寄る人、本格的な機材で花を背景に撮影を行っている人などが見受けられました。ここから多摩川をぶらぶら散歩して、川沿いの公園等に植えられた桜をのんびり堪能しました。

この季節、街路樹であろうと公園樹木であろうと、桜の花を愛でない人はいないでしょう。
しかし、落葉の時期になるとその葉を嫌がる方も多いようです。また、お花見の後のごみ問題が毎年ニュースで報じられています。

有名な法話に、
「花は枝によって支えられ、枝は幹によって支えられている。又、その幹は根によって支えられ、根は土によって支えられている。然し、その根は土にかくれて、何も見えない。咲いた花見て喜ぶならば 咲かせた根元の恩を知れ」
というものがあるそうです。この素晴らしい言葉は、先日の鹿児島出張の際に姶良土地開発の町田社長のご自宅の額縁に飾られておりそこで知ることができました。

ではその根は何を求めているのでしょうか。本来の自然環境において、おそらくそれは、自身が落とした葉っぱ(が分解されたもの)だと思うのです。しかし都市環境においては、それすらもかないません。

こんな環境下でもなお私たちを楽しませてくれるのだから、落葉や根上がりによる道路の破損などだけを見て街路樹を無下に扱うような対処をするのではなく、お互いが心地よい空間を造っていければ、そしてそれに寄与できるような造園家になれればな、と桜の花に想った次第でした。









本日(4月4日)は生憎の雨天。現場には出れないため、倉庫の掃除と、整理を兼ねて竹の穂で手箒を作りました。(そののちこのブログを執筆しています・・)
今週は雨が多いようで、桜も落ちるところは落ちてしまいそうですね。桜が週末まで持ちそうなところは、晴れそうな今週末がお花見日和と言えそうですね。幕引きになる前に、お花見をお楽しみください。


さて、今回も見学に訪れた造園空間の紹介をさせていただきたいと思います。

今回は、私の恩師である東京農業大学造園科学科の粟野隆准教授が、雑誌「庭NIWA」の今月号(no.223夏号)に寄稿しています「国際文化会館庭園」を先生自らが案内して下さる機会があったため、そのご紹介をしたいと思います。



国際文化会館は、日本と世界の方々の文化交流と知的協力を通じて国際相互理解の増進を図るために、1952年にロックフェラー財団をはじめとする様々な個人、企業の支援により設立された公益財団法人です。会員制の宿泊施設でもあり、レストランで食事や結婚式を行うこともできます。



庭園の全景です。(建物に対しては結婚式中のためカメラを向けられませんでした、そのため写真も微妙なアングルになりがちです。公式サイトを参考にしてください・・)

国際文化会館の建つ地は、江戸期には大名藩邸が置かれていましたが、以降所有者の変遷を経た後、三菱財閥四代目社長岩崎小彌太が購入、和館、庭園を造営しました。
小彌太は「外国の賓客を迎えられる日本式の邸宅を」と、建築を日本建築の大家である大江新太郎に、庭園を植治こと七代目小川治兵衛に依頼しています。そして当時植治にいた岩城亘太郎もこの造営に関わったとされています。



空襲により建物は消失してしまいましたが庭園は残り、三菱解体後、ロックフェラー三世と意気投合した国際的日本人ジャーナリストの松本重治が国際交流の場として強く提案、金策を巡らせた甲斐あって、戦後には当時の建築界の巨匠、前川國男、吉村順三、板倉準三の共同設計で様々な交流施設を秩序良く有する会館が新設されました。



石の寝かせ方、表現にいかにもな植治らしさを感じます。





池周辺。細かく細かく手が入っている樹木のバランスは、かの重森千靑氏の監修によるもの



二階部分の室内から。芝庭と柵の向こう、屋上のぎりぎりのところまで枯山水が・・くだらない心配ですが、砂利はこぼれないのでしょうか・・

式開催中の他、あまりにも人が多かったため、全体を把握できない写真配置で申し訳ありません。素晴らしい写真と解説、図面は前述の庭誌に特集されていますので興味のある方はそちらをご覧ください。



それにしても、庭園巡りなどが趣味の方はお分かりかと思いますが、特に東京都近郊の庭園には岩崎家の名前がそこかしこに出てきます。大名庭園を買い上げて保存したり自邸が文化財になっていたり・・それだけ財閥の力が強かったことを表していますが、僕自身岩崎家と関連する庭園遺産を整理してみたかったのでここに記してみたいと思います。コアなジャンルですが・・庭園巡りがお好きな方はご参考ください。



まずは初代社長の岩崎彌太郎。

写真の桜は駒込にある六義園のものです。桜のライトアップでも話題になるこの庭園は、江戸の五代綱吉の時代に林業政策でも高名な柳沢吉保が造営した池泉回遊式の庭園で、明治には彌太郎の所有となったのち、東京市に寄付され一般に公開されました。

そして同じく都内は江東区の清澄庭園も、江戸期に形作られ、のち荒廃した庭園を彌太郎が買いあげ、全国の石を配した名園「深川親睦園」として社員や貴賓に対して用いられていましたが、関東大震災において図らずも防災的な役目を果たし、その用途を重視した岩崎家が公園用地として東京市に寄付しています。ちなみにですが、初めてコンクリートが用いられた庭園ともいわれています。



二代社長の彌之助は、彌太郎の弟にあたります。箱根の現高級温泉旅館である「吉池旅館」に、その別邸が文化財として保存されています。水力発電発祥の場でもある他、茶室「真光庵」は江戸から受け継がれ、もう一つの茶室「暁亭」は山懸有朋が古希庵(小田原市、作庭岩本勝五郎)に建てたものを移築し館内に保存されており、広大なスケールの庭園は見どころいっぱいです。




彌太郎の息子にあたる三代社長の岩崎久彌は写真の「旧岩崎邸庭園」(台東区)を本邸として造営しました。
和館と洋館を併設するこの庭園は和洋併置式とも呼ばれ、洋館はジョサイア・コンドル、和館は当時の名棟梁大河喜十郎が手掛け、庭園は巨大な手水や燈籠、芝生等近代の初期の庭園の特徴を伺い知れます。



彌之助の息子の四代社長の岩崎小彌太は、上述の国際文化会館のほか、ツツジやシャクナゲが壮観の「山のホテル(箱根の別邸、建築にジョサイア・コンドル)」、「熱海陽和洞(別邸)」、「巨陶庵(京都南禅寺。現流響院。植治とその長男保太郎が作庭)」などに関与しています。


そして三代社長久彌の息子にあたる岩崎彦彌太は、東京は国分寺の殿ヶ谷戸庭園をかつて別邸として買い取っています。



こうしてみると、東京都近郊の文化財庭園における岩崎家の影響の強さがありありとわかります・・岩崎家が関与した庭園にテーマを絞っても面白いかもしれません。

しかし、近代の建築、庭園と言えばコンクリートであり、洋風と和風が混ざった(洋風に移行しかけている)様式である時代です。
石段や石積みを見てもコンクリートありきのもたせ方、積み方になっていたり、数寄屋建築で土壁の雰囲気を出しているのに大壁造であったり等、歴史としてみると面白いですが、気候風土や自然環境と寄り添ったデザインになっているかと言えば、近代あたりから道を違えてしまっている気がするのも事実です。



鹿児島出張の際に見学することができた古道は、雨水の処理や通気性などに有機的な工法で気を配っていました。
私たち造園家も、温故知新、近代土木と古代土木の融合を考えていかねば、自然環境の悪化にさらに拍車をかけてしまうことになりそうです。


早いもので、入社してから一年が経過してしまいました。
自分が漠然と抱いていた造園観を、厳しく正しく導いてくれる師のもとで勤められているのが光栄です。
おそらく現在の自分にとってどの企業よりも一番「よい」会社に入社できたと、胸を張って言えます。

初心を忘れず、見習いだと甘えず、これからも精進していきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | 記事URL

2016年2月14日 日曜日

根っこの拠りどころ

スタッフブログをご覧いただいている皆様、こんにちは。
またも更新間隔が大変に長く空いてしまい、年末から更新が滞ってしまいました。
ここ数日の、春風を思わせる暖かい空気に新年のあいさつを申し上げるには手遅れな時期とは感じるものの、本年も一年、よろしくお願いいたします。入社してそろそろ一年になります石井です。

今回は、昨月の半ばに参加した母校の見学会の際訪れた見学地のうちのひとつ、静岡は三島市、三島駅眼前の「楽寿園」のご紹介をさせていただきたいと思います。楽寿園は、明治維新の際もご活躍された小松宮彰仁親王が明治23年に別邸として造営されたもので、昭和27年からは市立公園として開園されています。



冒頭の写真は、楽寿園に入園してすぐの樹林帯の一区域を撮影したものです。クロマツやアラカシ、コナラなどが根を絡ませあい、お互いを支え合う様にして逞しく成長しています。カシやコナラなどが微地形上の起伏に支えあっている様子が、親方の植栽を思い起こさせます



楽寿園内の園路の様子です。上記の写真の部分のみならず、樹林帯全体が地表に根っこを逞しく張り巡らし、土壌を捕捉している様子が見て取れます。そして、その地形も、特異な様相の起伏がついています。これは・・



写真内看板の通り、そうです、この公園は、約一万年前の富士山の噴火の際に流出した溶岩、三島溶岩流が主たる地形を造っており、その上に実生あるいは植栽された樹木が160種以上生育しています。



上写真の中心部、円弧を描くような痕跡は、その様子の通り「縄状溶岩」と呼ばれる、溶岩の表面にできる流動しわ。



上写真の溶岩の表面、ブツブツとしている痕跡は「気泡」です。溶岩内の水蒸気やガスが抜けた跡ですね。
溶岩は固体化した様々な状態からその性質を読み解くことができます。この公園は、それらの特徴を知るのにうってつけです。



少し順序が逆になりますが、上の写真は入園口付近にある案内看板です。この園内で一番感心させられたといっても過言ではないこの看板。というのも、自分が立っているその地形がどのようにできたか、そしてそれを現在のどのような要素から読み解くことができるか、プレートの構造図や万年単位の地形の遷移図、平面、鳥瞰における図や周辺観光地との関係などを掲示し非常にわかりやすく説明しているのです。



この伊豆半島ジオパークの「ジオパーク」というものには、地域の地史や地質現象の地質遺産だけでなく、考古学的、生態学的、文化的な価値のあるサイトを含む場所が認定されます。この楽寿園には、上述しました溶岩流末端部のもたらした地形や地質の他にも多数の見どころ=ジオポイントを観測することができます。



崖上の建造物「梅御殿」下部の深池に見られる三島溶岩の石切り場跡もジオポイントと呼べる見どころのひとつ



北伊豆地震の際の傷跡が見える、大理石製の濡れ鷺型燈籠



中島から市の文化財「楽寿館」を望みます。楽寿館は京間風高床式数寄屋造りの建物で、地形に合わせた細かい段差と配慮のあることが特徴的なほか、室内に粋な演出をもって配置された装飾絵画は帝室技芸員(現在で言うところの人間国宝)6人を含む方たちの作品で、それらは県の文化財に指定されています(室内は撮影禁止のため写真がありません・・)



本園の大池「小浜池」は、溶岩間を流れる豊富な地下水を水源としていましたが、昭和30年頃の上流域付近の大開発に伴い地下水が減少。現在ではほとんど満水になることなくなってしまいました。しかし、数年に一度はその機会が来るとされ、最近では平成23年に満水となりました。
また、この視点場付近には二万六千年前に二つあった富士山の一つの頂が地震により崩壊し土石流(御殿場泥流)として流れ着いた玄武岩が用いられているとのこと



池の水のない庭園はあまり見られるものではありませんので、護岸や舟道の跡が見れると思えばこれも見どころの一つと言えそうです。

日本庭園的な部分を主に紹介してしましましたが、この公園内には動物ふれあい広場や資料館、蒸気機関車などが展示されていたり、全年齢のお客様が楽しめるように工夫されています。

しかしながら、木々の根っこの土壌化への影響力をまざまざと見せつけられる樹林帯と溶岩流や、その末端に現れる溶岩特有のデティールを活かした造作、数万年単位の地域性を感じさせる石材の転用など、恐ろしいくらいに土地を活かしていると感じた庭園でした。

デザインと呼ばれるものに求められる根拠、それは何を目的意識に置くかで見方が大きく変わるものではあると思いますが、その土壌を拠りどころにして根づいた植物が一番その土地に適応する様に、その土地の生物環境全体(施主含めて)が求める環境に近づけば近づくほど、造園的によい空間になるのかな、と楽寿園を見学し感じました。人間も他の生物なしでは生きていけないのは間違いなく、また造園という職能は、最も生物に触れる機会が多いと言い得る職能であると思いますので、出来うる限り生物の循環を乱さない様配慮していた方法を、現代より生物に触れあい暮らしていた昔から学んで、それをなんとか現代に生かしていこうと改めて思った次第です。

今年も一年、いい意味で悩んでいきたいと思います。よろしくお願いいたします!

投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | 記事URL

2015年11月 8日 日曜日

信州小谷村茅刈り茅葺き体験ワークショップ

朝夕の冷え込みに本格的な冬の訪れを感じるこの季節、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
またも前回の更新からかなりの期間が空いてしまいました。


お客様の造園工事を進める中、高田造園は、10月31日(土)から11月1日(日)にかけて行われた、日本茅葺き文化協会主催の信州小谷村茅刈茅葺ワークショップに参加しました。



日本茅葺き文化協会は、茅葺きの文化と技術の継承と振興をはかり、もって日本文化と地域社会の発展に資することを目的とし組成、活動している組織です。異業者にも理解しやすく充実した内容を経験できるワークショップを、その内容に対して良心的過ぎるともいえる参加費で、定期的に各地の茅葺き屋根が残る地で開催しています。

今回は、信州は小谷村がその開催地に選ばれました。かつて上杉謙信が敵である武田信玄に塩を送ったという故事がありますが、その塩と伴に多くの生活物資なども運ばれた「塩の道」、その当時の面影を見ることができるこの村には、高原に生息する「カリヤス」という良質かつ希少な茅の茅場とそれによってつくられた茅葺き屋根があり、そのことが今回の開催に結びついたようです。


今回のブログでは、その様子をレポートさせていただきたいと思います。


当日は早朝に出発し、長野県まで車で四時間余り、正午の集合時間前に現地近くの文化財を見学するところから始まりました。



まずは江戸の豪農の邸宅「旧曽根原家住宅」
今回は茅葺き「屋根」のワークショップに来ているということもあり、石置き板葺き屋根に着目してしまいます。
本住宅はこの長野県に多く見られる建築様式「本棟造り(妻入りで穏やかな勾配の屋根と、雀おどしと呼ばれる棟飾りを有したつくり)」が完成される途中の姿を示すものとして貴重とされているそうです。



そして1528年建立と伝えられる鶴王山松尾寺。
この本堂である薬師堂は仁科氏文化を反映した豪壮優雅な優れた造りがみられるとして文化財に指定されています。
特に、吸い込まれそうになる程の格式高い軒の作りに、その豪壮さを感じます。


文化財を拝見しながらこの地域の清涼な空気を肺に満たし、集合時間を気にしながら急いでお腹を満たして、いよいよワークショップへ。


初日は茅刈体験のため、ホテルからバスで茅場に向かいます。
茅場付近に降りた後は、軽トラックに乗って細い砂利道を進み、茅場の目の前に。





トラックで登ってきた砂利道を振り返ると長野県の有する連峰を一望することのできる、広大な茅場です。
高原のためこの時期ですでに地上部が枯れているカヤの色合いが広大な敷地に映えて、何とも美しいです。
茅は、地上部が枯れてから刈らないと耐久力が大きく低下するため、この茅場での刈り取り時期はこの時が適期なのです。




美しい茅場と軽トラックをバックになんとも頼もしく大きな後ろ姿で写っていらっしゃいますのが、今回のワークショップ全般においてご指導いただく株式会社小谷屋根の代表取締役松澤朋典さんです。朋典さんの父親にあたる敬男さんから家業を引き継がれ、高度成長期以前まで多くの屋根屋があった小谷村において唯一現在まで存続する同会社において茅葺き屋根を葺き続けています。朋典さん、敬男さんの指導は的確かつ経験を感じさせるもので、また敬男さんは伊勢神宮の式年遷宮においても携わられるなどといったことからも、小谷屋根という会社が持つ茅葺き屋根の技術が傑出したものであるということが私などのような素人にも伝わってきます。。

集合して小谷屋根や日本茅葺き協会の方と挨拶し、説明を受けた後、早速茅刈に入ります。


この茅場には、オオガヤと呼ばれるススキと、コガヤと呼ばれるカリヤスが両方生息しています。その違いを見分けて、屋根の茅として優れるカリヤスのみを刈っていきます。

地上に生えている茅を、左脇で抱えるようにまとめて、鎌で刈り取り、写真右の方のように抱きかかえられなくなるくらいまで刈り集めます。抱え込めなくなるくらいの量を刈ったら、茅を一握り取って、その茅を結います。この一束を一把(いっぱ)と数えるようです。





ある程度その束が集まったら、6把ずつまとめて、三又を二つ有したテントのようにまた結って、刈った後の茅場に点在させていきます。これを、ニュウと呼びます。こうして、茅を乾燥させたのち、屋根材として使われます。

休憩中に名物のおやき、しかも手作りのものを頂いて様々な人と談笑しながら、この茅刈とニュウ作りで、初日の作業の部は終了です。一面に生えていた茅がものすごい数へのニュウへと様変わりする様子は圧巻の一言でした。


この後ホテルに戻って温泉に入り、信州のおいしい郷土料理を夕食にいただいて、信州大学教育学部森林生態学研究室の井田秀行さんと上述しました松澤敬男さんの特別講義を拝聴します。


この講義の内容を、自身の予習復習も織り交ぜながら紹介し、茅葺き屋根とは、それそのものを改めて考えたいと思います。


茅葺き屋根は、農耕文化が根付き、それまでの森林を基盤とした生活から、草を衣食住の資源とした弥生時代に定着されたと考えられています。

農耕には肥料が不可欠であり、農耕用の家畜の飼育も伴います。その資源として欠かせないものが、茅葺きに用いられるススキやヨシ、カリヤスなどといった草本です。その採草地においてまず屋根材として草が刈られ、その古茅を肥料として用いるという循環的利用が確立されました。小谷村のカリヤスは、実は正式にはオオヒゲナガカリヤスモドキという種が多くを占めるそうですが、その種はススキより均質で、屋根材として耐久力が強いそうです。しかし最近は繁殖力の強いススキにカリヤスが侵食されている現実もあるようです。

それらが採取される茅場と呼ばれる茅の採草地は、日本の気候風土では放置すれば森林に遷移します。定期的に草刈りを行うことで維持できるいわば二次的自然であり、そこは春秋の七草をはじめとした多様ないのちの宝庫でもあるのです。またそれは、ここでは野火つけと呼ばれる火入れを行うことで、さらに良質の茅を維持することができます。井田秀行氏が指導教員を担当した学生の卒業論文では、その効果が科学的に立証されたようです。(野火つけを行わない場合に比べて野火つけを行う場合の方が茅の量が多い、太い、長い等)

茅葺きの屋根は、村人自らが葺くのが基本で、ユイ(結い)と呼ばれる相互扶助、助け合いの精神で行われ、その葺き方や棟の構造にも、地方の特色を見ることができます。
葺く際に、茅の穂先を上に向ける「真葺き」と穂先を下に向ける「逆葺き(さかぶき)」二種の方法があり、丈夫な茅の根元が表面に出る真葺きは耐久性に優れ、また厚く葺くのに向いていることから北方の集落に多くみられますが、逆葺きは穂先が下に来るため雨仕舞が良く、南方の地域に多くみられます。
茅葺き屋根の仕上げとなる棟にも、西日本に多くみられる針目覆い(棟を覆う茅を竹で抑える)、東日本に多くみられる芝棟(屋根に土を盛り芝を張る)のほか、木材が豊富な山間部に見られる置き千木(角材や丸太を交差させて棟に置く)、竹の豊富な平野部に見られる竹簀巻き(竹を簀子状に編んだもの)など、周辺環境とのかかわりを見ることができます。

つまり、茅の最終的利用は農耕のための肥料であり、その量が収穫量を左右することから、立派な茅葺き屋根は豊かな収穫の反映であると同時に、それを継続していくための肥料の備蓄装置でもあったわけです。そのような地域の農耕文化の象徴が茅葺き屋根であり、その持続可能性とそれによりもたらされる生物多様性を考えると、なんとしてでもこの文化を伝えていかねばならないなと、改めて心に想います。


さて、講義のその後は、おいしいお酒やご当地サイダーなどを囲みながら懇親会です。宴もたけなわ、予定されていた時間を二時間以上オーバーし、日付が変わるまで楽しく歓談しました。


翌日、若干にお酒の影響を感じさせる空気感のなか朝食を頂いた後は、集合時間まで快晴の空の下を散歩します。



白銀の峰々と白雲一つない青空に白い月が浮かんで、なんとも気持ちのいい朝です。


そしていよいよワークショップ二日目、茅葺き体験が始まります。



現場は、小谷屋根さんにより現在進行中の建物です。古材を用いて作られたシンプルな小屋の周りに足場がかけられ、そこに今回の参加者20名以上が登ります。



本日の体験研修では、小谷屋根の松澤敬男さん指導のもと、下から葺きあげる茅葺き屋根の、その一番下層の段階から始めます。これは茅が葺かれる前の屋根の下地です。



屋根の下地の最初となる屋根の際の部分には、茅を葺く前に麻殻(写真の黒っぽい茅のようなもの)を下層にすることで、降雪に強くします。その上に、茅を敷き並べ、さらにその上に長い竹を横に渡して縄で茅を抑えています。



その上に、少し上にずらした位置でまた茅を敷きならべ、縄でくくります。





そして、この上にまた竹を渡して、葺いていた茅の下に渡した竹と縄でとっくり結びをします。とっくり結びは、緩めるのは簡単ですが絞めると緩まり辛くなる結び方で、この結び方でもって茅を足で思いっきり踏み、その瞬間に結びを絞め茅を抑えていきます。

このような作業を繰り返して、茅葺き屋根が葺きあがっていくそうです。
今回のワークショップ時間内で葺きあがる規模の屋根ではもちろんないので、経験できたのはほんの一部分のみでしたが、茅の感触やこらされている工夫を現場で味わうことができ、大変な満足感でもって現場研修の部を終了しました。
最後に大きな一枚板に参加者全員の名前を書いて、それを完成したこの建物の中に飾っていただけるという粋な企画も。

その後、お昼休憩にておいしい信州郷土弁当ときのこ汁を頂いた後は、ワークショップ最後のプログラムである、茅葺き屋根の建物や小谷村の文化財の見学です。



茅葺き屋根を有する住宅。



多くの食料や生活品などが鉾ばれた塩の道「千国街道(越後路糸魚川~松本城下までの三十里)」において運上銭や人改めを行った場所「千国番所」

中に入ると、馬や牛、人が背負ってものを輸送した当時の様子が等身大模型などによって体感できるようになっています。




「旧千国家住宅」
ここは、上でも書いたように輸送した人や馬が寝泊まりし休むことのできる宿泊施設です。内部に馬用の広い土間があり、その上部にロフトのような形で寝室が設けられ、輸送人が馬の様子を近くで見ながら休むことのできる造りがとられています。



小谷屋根さんの葺いたとても美しい茅葺き屋根を心に残しつつ、ホテルに戻り、挨拶をもって、今回のワークショップは終了となりました。

素晴らしい環境と人々に囲まれて過ごした二日間はあまりにあっという間で、形容しがたい程複雑な郷愁感が、このワークショップの圧倒的な満足感をさらに実感させてくれたようです。


日本の後世に残すべき伝統技法である茅葺きの技術、それを現代以降において継承するのは、明らかに容易なことではないでしょう。その背景には、日本人が農耕や村単位での生活を捨てつつある現状があると感じます。

上記のように、茅葺きの屋根は農耕と密接に関係しています。その関係が失われつつあるであろう現代においては、茅葺き屋根の保全、活用は厳しいものであると予想せざるを得ません。

しかし、現代の都市環境を例にみると、無機質な材料で作られた集合住宅がカーテンもあけられないような密度で林立し、自分の周りにどのような人々が住み営んでいるかも知らず、隣人トラブルや犯罪がニュースに取り上げられています。また自分の体を形成する食料においても、どこでどのようにつくられたか分からない様なものを購入し、様々な薬品や添加物を知らずに体の中に摂取しています。
このような暮らしの先に、自然と人間との健やかな共生があるとは思えません。

茅葺き屋根は、人々がお金でつながっているのではなく、助け合いの心、相互扶助によって成り立つことを象徴するものであり、その地域がその地域単位で衣食住をまかなっているのだという底力、団結力の表れでもあると感じます。


茅葺き屋根は間違いなく現代における一般的な屋根とはいえなくなっていますが、需要は確実にあるようです。その需要はきっと、現代、特に都市環境における生活の矛盾さに違和感を感じる方や、田舎の暮らしを大切にされている方のものだと思います。そのような有機的な考えが現代に広がっていることは、薪、ペレットストーブなどの普及率などから見て取れます。あまりにも無機的にものを作り続けてしまった現代にも、その様な動きがあるのであれば、ローカル性を第一に考えねばならない造園という職業に勤めている身において、専門職ではなくともその継承の役割の一端を担わなければ、そのためには、屋根のみならず、農耕の仕組みから変革を起こしていかなければならないのでは、そう強く感じたワークショップでした。



年の瀬が近づいていることをひしひしと肌に感じますが、日中はまだまだ体を動かすととても暑くなります。今年は世界的に記録的な暖冬になる様で、例年以上に体温調節が難しい季節の変わり目となりそうです。
風邪やインフルエンザなども流行するこの季節、皆様も体調にお気をつけてお過ごし下さい。

投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | 記事URL

2015年9月18日 金曜日

夏の収穫

高田造園ブログをご覧の皆さま、いつもありがとうございます。ご無沙汰しております石井です。


前回の更新から随分日にちが空いてしまいました。本日は、酷暑を思い出させてしまう真夏の時期にまで遡ってしまうことになりますが、前回の更新の直後頂きましたお盆の連休の「造園的収穫」について書き連ねたいと思います。


まずはお盆休み序盤、八月八日に、雑誌「庭」主催のシンポジウムに参加しました。本誌をお読みの方はご存知と思いますが、読者と掲載された庭師、そして異業種の方の交流を目的としたシンポジウムが2015年春号から発刊のタイミングで定期的に開催されており、今回行われるのは三回目となります。初回に池袋で行われたシンポジウムに参加しレポートとしてまとめた原稿を2015年夏号に掲載させていただいたご縁もあったため、関東近辺で行われた場合には出来得る限り参加したいシンポジウムのひとつでもあります。(二回目と、次回の四回目の会場は梅田のようです)



今回のシンポジウムのテーマは「造園家とランドスケープアーキテクトの仕事の領域」。登壇者は、庭誌への掲載も多く写真集「水の庭の精神」(建築資料研究社、2014年5月発行)も著されたご存知水景のスペシャリスト、株式会社大北美松園の大北望氏と、同分野の造園とはいえ対象とするスケールが一回り大きい職能であるランドスケープ設計分野の大手、株式会社ランドスケープデザインの佐藤宏光氏。お二人が協力して施工した現場を主題に、過去のお仕事なども伺い、それらの話題に対して質疑応答で振り返る形で、シンポジウムは進められました。お二人の和やかな対談や現場施工時の様子から、お互いにリスペクトしあい、同じ目的意識のもと対等な立場でプロジェクトを進められてきた経緯がひしひしと感じられます。(戸田芳樹先生の途中参加には驚きましたが。。)

水を用いた庭が大好きで、またランドスケープデザイン的な分野も大学で学んでいた私にとってはお二人の登壇、対談は本当に願ってもないような事で、大北氏の水景の技法やその細部の写真や佐藤氏のスケール感、空間の捉え方など技術的、経験的なお話は大変勉強になりました。しかし本シンポジウムで最も心に響いたのは、テーマにも通じる、佐藤氏の「自分の手でものを造っている人の言葉は説得力が違う。設計者には限界がある」ということばでした。主に自然材料を用いることが多く何よりも「自然とは何か」を追求し自分の手でものづくりにあたっている造園職人からすれば、現代の建築(設計)主導の風潮の中でこのような考え方を持って公共的外空間を設計管理している方が業界の第一線に居て頂けるということは大変に嬉しい事であろうと思いますし、それによりニワの未来の希望がどれだけ広がることでしょうか。長々とした質疑にもお二人とも快く答えていただき、その後の懇親会も参加して、大変に有意義な経験をさせていただきました。

本誌が主催するシンポジウムは庭公式ホームページ(http://niwamag.net/)などでも情報を得られますし、どなたでも応募できますので、興味のある方はぜひご参加ください。


そしてその日の夜の懇親会の後、竹芝から夜行の客船に乗り、伊豆諸島は神津島へ一泊の旅行に向かいました。

神津島は、伊豆諸島の有人島としては最西端にある島で、瓢箪のような形をした面積約18.5㎢の島になります。
海水浴やダイビングが楽しめるきれいな海や海岸があるほか、島の中央に位置する天上山(標高は600m程)は、山頂に天然の池や白い砂漠を有し、四季折々の花も楽しめるため、花の百名山、新日本百名山にも選ばれています。岩場に設けられた飛び込みもできる大きな歩道、赤崎遊歩道というところもあります。



やはり造園家見習いとしては、山の植生や面白さの方が気になってしまうものです。時間もあまりとれなそうですが早速天上山へ。遠目からみると、標高の割に広いスケール感を感じさせる地形な気がします。緑が多い尽くしているところが山道のようなので、少し安心します。なんせ真夏の晴れの日です。と思いきや。



樹木が低いんです。耐潮性のあるシダや、マツやシャリンバイ、トベラなどの植生ですが、おそらく潮風と土壌の影響で、背丈以上の物がありません。ひざ下です。確かにこんなところですから当然といえば当然です未熟でした。日光が直射です。買ったアクエリアスがみるみる減っていきます。

時間とアクエリアスの許す限りまで登りましたが、山頂にはたどり着けませんでした。それでも近くの海と少ない市街を見下ろす六合目からの眺めは絶景の一言でした。それにしてもやはり、夏に低山を登るのはよくないようです・・



その次の日は海水浴へ。とにかく綺麗です!海に面した自然の地形や山、浜が貴重に感じられるのは(元)東京民の若者の悲しき宿命なんでしょうか。そして帰りは行きと異なるジェット船で、数時間で帰れました。



短い時間でしたが、海や山、そしておいしいお魚などを存分に満喫することができました。アクセスもいいですし、皆様も、山なら春秋に、海なら夏に、神津島、訪れてみてください。


また、この連休中には自然を楽しむ旅行をするほか、使ってみたい、手に入り辛い道具を買い揃えることも目標のひとつでした。まずは地元の金物屋さんで丸太などをはつる、殴る道具「ちょうな」を。そして、京都に石道具を買いに行きました。



訪れたのは石道具好きの方ならご存知坪田金物さんです。私は親方に教えてもらい初めての訪問でした。
鋏などの他、左官道具や石道具の品揃えが豊富で、石道具はとても頑丈につくられているそうです。
整地等に用いる地ゴテも坪田さんのものは丈夫かつバランスが良いと聞きます。
東京もので石道具初心者の私にも色々と道具の話をしてくださり、大変勉強になりました。
購入したものは、目地ゴテ3種、セットウ3種、石ノミ3種、コヤスケ、鉄平トンカチ等。ビシャン以外のひとまずの石道具一式を揃えさせていただきました。今は柄をつけている最中で、早く使ってみたいものです。



京都にお越しの庭師の方、石道具をお探しの方はぜひ。


そしてせっかく京都に来たからには、やはり造園的なものも見なければなりません。今回は、下鴨神社に訪れました。
下鴨神社は、平安時代以前から存在する京都で最も古い神社のひとつで、世界文化遺産にも登録されています。上賀茂神社の祭神である賀茂別雷神の母の玉依媛命とその父の賀茂建角身命を祀ることから、正しくは賀茂御祖神社といい、江戸末期造替された東本殿と西本殿は国宝に指定されているほか、多くの社殿が重要文化財に指定されています。



そして、東京ドームの三倍にも及ぶ面積を誇る境内の自然林は糺の森と呼ばれ、平安京以前の原生林を残す貴重な森林として国の史跡に指定されています。神社を見に来たというよりは、この森を見るために、ここに来たといっても過言ではありません。親方に、開発状況を見た方がいいとのアドバイスがあったためです。そう、この貴重すぎるともいえる価値を有するこの自然林が、開発に巻き込まれようとしているのです。


 
下鴨神社は、道路をはさんで糺の森に隣接する土地約9600㎡を高級マンション用地として貸し出すことで、その資金を神社の整備に充てるそうです。現在の研修道場を壊した後道路を石畳風に改修し、マンション周辺にも樹木の植栽を行い景観との調和を図るとしています。(開発状況はバリケード内でよく見えませんでしたが・・)



厳密には指定された糺の森区域内ではありません。ですが、ここに鉄筋コンクリート造のマンションが建造されてしまえば、大規模な基礎工事による地下水脈への影響が出るのは明らかと思われます。その水脈が滞ってしまえば、道路一本で分け隔てられている糺の森が劣化することは間違いないのではないでしょうか。現在の研修道場や駐車場周辺にも、糺の森の主要樹木であるニレ科の高木は残っています。その樹木(50本ほど)を避けてマンションを計画する予定が、現行ではマンションに当たる部分の伐採か移植に変更されているそうです。どうかせめて移植されること、土中の環境を考えた道路改修がなされることを祈るのみですが・・

下鴨神社は式年遷宮の費用(屋根葺き替え他)に充てると言いますが、なんのための式年遷宮なのでしょうか。確かに精緻に葺かれた檜皮葺の格式は荘厳ですし、技術継承の場としても機能していると思います。その吹き替えのタイミングとして(諸説ありますが)檜皮の性質を考慮した20年が最適ということもうなずけます。神様に御不自由をかけまいという心は大変尊いとは思いますが、御祭神のみならず、八百万の神様は大掛かりな工事で悪化した環境を見るよりは、少し古くなった檜皮葺でもいいと思うのは私の無知ゆえなのでしょうか・・
下鴨神社も、宮づくりは森づくりから、という方針を持っています。それでしたらどうか、その稀有な価値を有す森に最大限配慮した宮のあり方を、願いたいと思います。

しかし、嬉しいこともありました。なんと偶然にも古本市がやっていたのです。数十はある古本屋の数、数。
全ての古本屋の造園系の本を探すこと二時間、いい書籍を買うことができました。





近代造園史に名を残す作庭家、故荒木芳邦氏が手掛けた勝尾寺の写真集です。荒木芳邦と言えば自然石を用いつつも水平の線を広く取ったカスケードのような滝が印象的ですが、本庭園にもそれが表れています。また前述した大北望氏も同様の滝を多く作られますが、シンポジウムにて戸田芳樹先生の作風への質問に対し「荒木芳邦さんに勝尾寺など様々な庭、滝を見せてもらったことが刺激的だった」と言っていので、嬉しいタイミングでこの書籍を購入できました。



下鴨神社も境内は素晴らしかったですし、夜行バスで着いたその日の夜に夜行バスで戻るというあまり心地はよくない旅でしたが、お目当てのもの+αが手に入り満足できました。

そのほかにも連休中にはボルダリングをしたりテニスをしたり、様々なお酒の席で友人と造園談義出来たりと、とても有意義に、造園的に過ごすことができました。テニスだけ関係ないように見えますが、テニスも漢字では「庭」球と書きますね。うすら寒いことを言って申し訳ありませんが、ルーツはやはり中庭でのアクティビティのひとつなのだとか。また先ほどの道具の話ではありませんがちょうながけの支柱を用いた四ツ目垣や土塀でおなじみの鶴川の庭師の方は昔、荒木田土でテニスコートを作る仕事などもされており、それも今の庭づくりに役に立っているといっていました。ニワを作るには、様々なこと、無駄に思えるような事でも吸収していこうと改めて思った連休です。


久々の更新で長くなってしまいましたが、ここまでお読みいただいた方有難うございます。その貴重な時間を頂戴しましたゆえに、上記の情報がなにかお役に立てるならと思う次第です・・


それにしても、最近はまた天気が不安定で豪雨が続いていますね。
最近つくばの現場に赴かせて頂いているのですが、常総の方では鬼怒川の氾濫がもたらした洪水被害が甚大のようです。一日も早い復旧をお祈りいたします。
しかし、川の氾濫や洪水など、天災と思われているようなことでも、人災でもあるんじゃないかと思う最近です。自然は科学で制圧できるのだと自然を畏敬する心を忘れ、自然の営みを無視した建設工事をしてしまったら、いずれ自然は牙をむくのではないでしょうか。今回の件でも、過去のソーラーパネル設置による自然堤防の掘削が問題視されているようです。その地に長く住んでいる近隣住民の方はその重要さに気づいていたそうですが・・。
さまざまなことを見直さねばならない時代が来ていると思います。


皆様もくれぐれも事故や体調にお気をつけてお過ごしください。





投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | 記事URL

2015年8月 8日 土曜日

真夏の庭園めぐり

高田造園スタッフブログをご覧いただいている皆様、ご無沙汰しております。入社しまして早くも五か月が過ぎました、石井です。
あれほど不安定な梅雨の面影はどこへやら、夕立すら来ない摂氏三十度代後半が毎日のように続いているようです。毎年々々、天気予報で「例年以上の・・」という言葉が聞かれるのは気のせいでしょうか(温度然り、スギ花粉然り・・?)

さて、前回のブログでは、私が休日に拝見しました親方のお庭を紹介させていただきました。そこで今回も、その後訪れた庭園の紹介をさせていただこうと思います。仕事の合間を縫って造園空間を拝見することや、その拝見した造園空間を回想しながら関連文献なども参考、確認して文字におこすことは、書いている私自身も大変勉強になりますので、私のブログでは造園空間の紹介が主となるかもしれません。
その情報が、ご覧いただいている皆様のお役にも立てれば幸いです。

それではまず、東京都は世田谷、二子玉川公園内にあります「帰真園」です。



開園は2013年、面積は約1760坪。入場料は無料。作庭は、近代造園史に名を残す中島健の元で修業をされ代表作「田園調布四季の庭」では造園学会賞を受賞されました高崎設計室有限会社代表の高崎康隆氏。設計業務には、世界規模でランドスケープを創出している株式会社戸田芳樹風景計画、監修は紫綬褒章も受賞されています造園界のオピニオンリーダ、進士五十八氏が務められています。
庭園名には、リターントゥネイチャー、自然に感謝し、自然に帰る。そのような精神が込められています。

この庭園の特徴を端的に表すと、「ユニバーサルデザインと多摩川の縮景を主題とした、現代の公共的日本庭園」といったところでしょうか。

多摩川や国分寺崖線沿いに豊かな自然、文化遺産を有しつつも商業施設などの開発が盛んな二子玉川において、本庭園は環境、教育、福祉に強く貢献することを念頭に置かれ作庭計画が進められました。そのため飛び石や石段等、ユニバーサルデザインの基準には程遠い回遊路のイメージが強い「日本庭園」というデザインの要素ですが、本庭園では車椅子の方でも回遊できるよう緩やかかつ平坦な回遊路を主動線として設けています。それを現代の生活様式における「日本庭園」の特徴とするねらいがあるようです。前回紹介させていただいたホスピスの庭とも通ずる部分があります。


車いすの方でも利用できる茶室、万人席


車いすの方でも利用できる高さの蹲踞。前回の投稿と通じる部分があります


多摩の源流をイメージした滝口。右奥の通路は車いすの方用の視点場


土塁と平坦でのびやかな園路


園内に移築された文化財、旧清水邸書院

しかし気になったのは、樹木の威勢がとても弱弱しいということです。枝枯れを繰り返し棒状に近い姿の雑木が多く見受けられました。恐らく白色系の園路舗装による強烈な照り返しが引き起こす幹の乾燥が原因かと思われます。常緑性の低木などを植栽すれば中高木も楽になるとは思うのですが・・。過酷な都市環境に樹木を植えるときには、様々な事に気をつけねばなりません・・。



次は、静岡出張の際に訪れることのできた、龍潭寺と摩訶耶寺です。

龍潭寺は、臨済宗妙心寺派で733年に行基が開創、もとは八幡山地蔵寺と称されていたようです。井伊家初代の時、その菩提寺となっています。また昭和11年に国の名勝に指定されており、庭園は江戸時代前期の作庭とされています。小堀遠州が作庭に関与したのではと推測される多くのうちの一つですが、本堂建立の30年前に遠州が没していること、庭園の手法が遠州没後の時代を強く反映した手法であること(観賞式でありながら回遊施設の点在、芝生築山の連山、細長い流れと建造物間の狭さ、実際の水面と枯滝の併用等)から、その説の信頼性には賛否あるようです。

三尊石や枯滝、鶴亀の石組やサツキの刈込など、当時形定化された寺院庭園の様式を忠実に伝承する本庭園はとても貴重であるといえます。


全景。しっかりとそれぞれの役石が明確に残っています。


あまり注目されることない石庭。



摩訶耶寺は、高野山真言宗ですがこちらも行基が開創とされています。(726年)奈良時代から今日まで数々の兵火、天災から守られており、厄除けの寺としても高名です。文化財に指定された不動明王像、千手観音像、阿弥陀如来像などを有しています。寺の名の由来は梵語のマカヤーナの音写で、優れた教えを意味しています。

庭園が発見されたのは昭和32年と新しく、竹林清掃中に発見されました。そして後昭和42年に日本庭園研究会と京都林泉教会の合同調査によって発掘復元されたものです。作庭年代を証明する文献的証拠は発見されていませんが、石組や地割の構成から、京都林泉教会の重森三玲は平安末期、日本庭園研究会の古河功は鎌倉初期と推定したようです。しかし近年では江戸時代の作庭ではという説も。しかしながら平安末期あるいは鎌倉初期付近の庭園であれば、その時代の庭園は京都や奈良、奥州平泉以外の地域にはほとんど存在しませんので、かなり貴重な庭園遺構であるといえます。私は大学生時代、庭園遺構の池底や護岸の構造について卒論を書いていたのですが、本庭園の報告書に記されていた池底に粘土と砂を(交互に?)敷設するという工法は平安時代に数件見られた工法でもありますので、その部分だけみると重森の推察と重なるところがあります。
当時の植栽を推定、復元することが難しいため、石組と地割が強く印象に残るところは、発掘庭園特有の特徴といえそうです。


石組全景


門のどっしりとした佇まい



しかしながら、今夏は本当に暑いですね。ここ数年、人々が心の底で「異常気象」という四文字を意識せざるを得ない、そんな時代なのではないでしょうか。手入れや作庭にて雑木の作ってくれる涼しげな木陰を見るたび、やはりこのような現代において人と自然の生活環境を救えるのは、造園という職能をおいて他にはない、そのような気持ちで仕事に臨んでおります。

これからお盆休みをいただきますが、折角の連休、家庭の用事のみならず造園的に有意義な連休にしたいと思います。

工事などお待ちいただいているお客様、ありがとうございます。このような機会で養った経験をお客様のお庭にも還元できるよう精進いたしますので、しばしのお時間お待ちくださいませ・・
またこの時期お一人でお仕事されている(特に外仕事である同業者の)方々、くれぐれも熱中症にはお気を付けください。現場にてお一人で倒れてしまったら、気づいてくれる方もいませんので・・。室内でも熱中症にかかる方は多いと聞きます。

しかしこの猛暑だからこそ、木々が作る木陰のありがたさが身に染みてわかる時期でもありますね。ですがこの雨の降らない今夏、その樹木たちも水がほしいといっていることも多いと思います。庭木や鉢物がそのように語りかけてきたら、頑張っている樹木に一服させてあげてください。

次回は連休中に体験、拝見した事柄を書かせていただきたいと思っています。
重ね重ねになりますが、くれぐれも体調にお気をつけてお過ごしください。

投稿者 株式会社高田造園設計事務所 | 記事URL