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2015年11月23日 月曜日

種にかえる季節


秋の賑やかさも落ち着き、道に溜まった落ち葉から早くも暮れの足音が感じられます

冬は寂しさを感じますが、生き物全てが次の活動期に向けて準備をする貯蔵の時期でもあります
イネ科の草は地上部を枯らせ、エネルギーを地下へと蓄えます
すべてのものが種に帰るこの時期こそ、成熟したものが"0"へと還りまた生まれる、命の巡りの神秘さを感じられる気がします(だから0は輪の形なのでしょうか...)

そして先日の新潟松の海岸林再生作業の合間、奇跡のような命の軌跡に遭遇することができました



今もなお伸び続ける阿賀野川河口の砂丘、その名のごとく"新たな潟"を作ろうとしています
日本海側では最大級の越後平野、海岸線には11もの砂丘列が海と並行するように並んでいます


この砂丘列形成は7000年前にもさかのぼります。
氷河期が終わり氷河が融け海水面が上昇、海水の内陸侵攻に伴い、土砂が押し寄せられ初期の砂丘列は形成されました。

その際内陸の河川が行き場を失い(運ばれた土砂が砂州を作りせき止めるので)"潟"となります

その後も何度か砂丘が形成され、それと共に潟も生まれてきました(福島潟、鳥屋野潟など)

今現在阿賀野川河口をせき止めるように海水は土砂を運び砂丘は伸び続けています
しかし、無機質な砂丘にどうして緑が生育できるのだろうか...

作業の合間足を延ばした阿賀野川河口に、大地と海とが織りなす、奇跡的な"命のゆりかご"づくりが見られました

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海が運んできた土砂の上に、河川が運んできた流木

















これが堆積し炭化
砂の大地の有機物となり草の生育を誘発しているのです

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炭化した流木                        土化し始めている砂


 しかも、炭化した流木の上をさらに土砂が堆積することで、自然な起伏が出来上がり、土中の通気環境も維持されます


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自然の様々な働きによってできた微地形        有機物を含んだ砂地に草が生え始めている


 草が生えればその後、砂地は一気に土化を加速、他の植物も生育できる環境へと徐々に地力をつけていきます

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生えてきた草の根は細根が発達し、砂をつかんでいる、根には多種多様な菌根菌が共生しているため、砂地の生態系豊かになってくる


















力の無い全くの砂が、たくさんの命宿す土へと還る光景に、自然の奇跡、神秘さを感じずにはいられませんでした

大地の胎動感じる新潟、なぜここで松の海岸林再生をするのか、このお話をいただいた時よりもずっと強く思うのでした

自然がこんなにも生み出そうとしているのに、それをはるかに超えた速度の破壊力で人間が壊し続けているのだと...
もし、人間が自然の一員だとするならば、やはり役割や指名は命を繋ぐことかもしれないと思う
そしてそれは、これからを生きる世代にも感じてほしい

「地球の素晴らしさは生命の輝きにあると信じていた。地球はあらゆる命が織りなすネットで覆われている。
その地球の美しさを感ずるのも、探求するのも、守るのも、そして破壊するのも人間なのである」

翻訳者、上遠恵子さんの言葉です
上遠さんの翻訳されたレイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」は水産生物学者であるレイチェルが破壊と荒廃へと突き進む私達へ向けた最後の遺言であり贈り物です



本には、上遠さんの訳を通してレイチェルとその甥ロジャーとの自然との触れ合いから感じる、美しいもの、未知なもの、神秘的なもの...たくさんの自然の奇跡が詰め込まれています

自然との共存という希望は、幼いものたちの感性の中にあるのかもしれない。
たとえ大人になったとしても、「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性」は自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。
(センス・オブ・ワンダーより)




シュタイナー 千の葉学園の子供たちとの家づくり


まわりの自然の材料で作る、自分たちの場所


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落ち葉が炭化し新たな命の土壌となる


 


いつもの駆け回り締め固まった地面にみんなで炭をまきます...

積極的に自然と向き合い、関わることで自然の一員なのだと感じます

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 学園の子供たち、お客様のお子さんとの話はいつもハッと気づかされることばかりです
子供の見る世界は、大人が見ている世界よりもきっと大きくて、広くて、細かくて、深いそして何より敏感に、純粋にかんじているのだと...
幼いこどもたちがいつもワクワク、目を輝かせ続けられる、かけがえのない宝物がいつまでもあり続けますように...

破壊を続ける人間に対して、生み出そうとしている自然
決していつも優しいばかりではないけれど、大切なことを伝えようとしている

いつか出会う自分の子と、この自然の美しさ、不思議さ、厳しさ、未知なるものの神秘さ、共に胸ときめかせ、分かち合いたい...

















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2015年11月 8日 日曜日

信州小谷村茅刈り茅葺き体験ワークショップ

朝夕の冷え込みに本格的な冬の訪れを感じるこの季節、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
またも前回の更新からかなりの期間が空いてしまいました。


お客様の造園工事を進める中、高田造園は、10月31日(土)から11月1日(日)にかけて行われた、日本茅葺き文化協会主催の信州小谷村茅刈茅葺ワークショップに参加しました。



日本茅葺き文化協会は、茅葺きの文化と技術の継承と振興をはかり、もって日本文化と地域社会の発展に資することを目的とし組成、活動している組織です。異業者にも理解しやすく充実した内容を経験できるワークショップを、その内容に対して良心的過ぎるともいえる参加費で、定期的に各地の茅葺き屋根が残る地で開催しています。

今回は、信州は小谷村がその開催地に選ばれました。かつて上杉謙信が敵である武田信玄に塩を送ったという故事がありますが、その塩と伴に多くの生活物資なども運ばれた「塩の道」、その当時の面影を見ることができるこの村には、高原に生息する「カリヤス」という良質かつ希少な茅の茅場とそれによってつくられた茅葺き屋根があり、そのことが今回の開催に結びついたようです。


今回のブログでは、その様子をレポートさせていただきたいと思います。


当日は早朝に出発し、長野県まで車で四時間余り、正午の集合時間前に現地近くの文化財を見学するところから始まりました。



まずは江戸の豪農の邸宅「旧曽根原家住宅」
今回は茅葺き「屋根」のワークショップに来ているということもあり、石置き板葺き屋根に着目してしまいます。
本住宅はこの長野県に多く見られる建築様式「本棟造り(妻入りで穏やかな勾配の屋根と、雀おどしと呼ばれる棟飾りを有したつくり)」が完成される途中の姿を示すものとして貴重とされているそうです。



そして1528年建立と伝えられる鶴王山松尾寺。
この本堂である薬師堂は仁科氏文化を反映した豪壮優雅な優れた造りがみられるとして文化財に指定されています。
特に、吸い込まれそうになる程の格式高い軒の作りに、その豪壮さを感じます。


文化財を拝見しながらこの地域の清涼な空気を肺に満たし、集合時間を気にしながら急いでお腹を満たして、いよいよワークショップへ。


初日は茅刈体験のため、ホテルからバスで茅場に向かいます。
茅場付近に降りた後は、軽トラックに乗って細い砂利道を進み、茅場の目の前に。





トラックで登ってきた砂利道を振り返ると長野県の有する連峰を一望することのできる、広大な茅場です。
高原のためこの時期ですでに地上部が枯れているカヤの色合いが広大な敷地に映えて、何とも美しいです。
茅は、地上部が枯れてから刈らないと耐久力が大きく低下するため、この茅場での刈り取り時期はこの時が適期なのです。




美しい茅場と軽トラックをバックになんとも頼もしく大きな後ろ姿で写っていらっしゃいますのが、今回のワークショップ全般においてご指導いただく株式会社小谷屋根の代表取締役松澤朋典さんです。朋典さんの父親にあたる敬男さんから家業を引き継がれ、高度成長期以前まで多くの屋根屋があった小谷村において唯一現在まで存続する同会社において茅葺き屋根を葺き続けています。朋典さん、敬男さんの指導は的確かつ経験を感じさせるもので、また敬男さんは伊勢神宮の式年遷宮においても携わられるなどといったことからも、小谷屋根という会社が持つ茅葺き屋根の技術が傑出したものであるということが私などのような素人にも伝わってきます。。

集合して小谷屋根や日本茅葺き協会の方と挨拶し、説明を受けた後、早速茅刈に入ります。


この茅場には、オオガヤと呼ばれるススキと、コガヤと呼ばれるカリヤスが両方生息しています。その違いを見分けて、屋根の茅として優れるカリヤスのみを刈っていきます。

地上に生えている茅を、左脇で抱えるようにまとめて、鎌で刈り取り、写真右の方のように抱きかかえられなくなるくらいまで刈り集めます。抱え込めなくなるくらいの量を刈ったら、茅を一握り取って、その茅を結います。この一束を一把(いっぱ)と数えるようです。





ある程度その束が集まったら、6把ずつまとめて、三又を二つ有したテントのようにまた結って、刈った後の茅場に点在させていきます。これを、ニュウと呼びます。こうして、茅を乾燥させたのち、屋根材として使われます。

休憩中に名物のおやき、しかも手作りのものを頂いて様々な人と談笑しながら、この茅刈とニュウ作りで、初日の作業の部は終了です。一面に生えていた茅がものすごい数へのニュウへと様変わりする様子は圧巻の一言でした。


この後ホテルに戻って温泉に入り、信州のおいしい郷土料理を夕食にいただいて、信州大学教育学部森林生態学研究室の井田秀行さんと上述しました松澤敬男さんの特別講義を拝聴します。


この講義の内容を、自身の予習復習も織り交ぜながら紹介し、茅葺き屋根とは、それそのものを改めて考えたいと思います。


茅葺き屋根は、農耕文化が根付き、それまでの森林を基盤とした生活から、草を衣食住の資源とした弥生時代に定着されたと考えられています。

農耕には肥料が不可欠であり、農耕用の家畜の飼育も伴います。その資源として欠かせないものが、茅葺きに用いられるススキやヨシ、カリヤスなどといった草本です。その採草地においてまず屋根材として草が刈られ、その古茅を肥料として用いるという循環的利用が確立されました。小谷村のカリヤスは、実は正式にはオオヒゲナガカリヤスモドキという種が多くを占めるそうですが、その種はススキより均質で、屋根材として耐久力が強いそうです。しかし最近は繁殖力の強いススキにカリヤスが侵食されている現実もあるようです。

それらが採取される茅場と呼ばれる茅の採草地は、日本の気候風土では放置すれば森林に遷移します。定期的に草刈りを行うことで維持できるいわば二次的自然であり、そこは春秋の七草をはじめとした多様ないのちの宝庫でもあるのです。またそれは、ここでは野火つけと呼ばれる火入れを行うことで、さらに良質の茅を維持することができます。井田秀行氏が指導教員を担当した学生の卒業論文では、その効果が科学的に立証されたようです。(野火つけを行わない場合に比べて野火つけを行う場合の方が茅の量が多い、太い、長い等)

茅葺きの屋根は、村人自らが葺くのが基本で、ユイ(結い)と呼ばれる相互扶助、助け合いの精神で行われ、その葺き方や棟の構造にも、地方の特色を見ることができます。
葺く際に、茅の穂先を上に向ける「真葺き」と穂先を下に向ける「逆葺き(さかぶき)」二種の方法があり、丈夫な茅の根元が表面に出る真葺きは耐久性に優れ、また厚く葺くのに向いていることから北方の集落に多くみられますが、逆葺きは穂先が下に来るため雨仕舞が良く、南方の地域に多くみられます。
茅葺き屋根の仕上げとなる棟にも、西日本に多くみられる針目覆い(棟を覆う茅を竹で抑える)、東日本に多くみられる芝棟(屋根に土を盛り芝を張る)のほか、木材が豊富な山間部に見られる置き千木(角材や丸太を交差させて棟に置く)、竹の豊富な平野部に見られる竹簀巻き(竹を簀子状に編んだもの)など、周辺環境とのかかわりを見ることができます。

つまり、茅の最終的利用は農耕のための肥料であり、その量が収穫量を左右することから、立派な茅葺き屋根は豊かな収穫の反映であると同時に、それを継続していくための肥料の備蓄装置でもあったわけです。そのような地域の農耕文化の象徴が茅葺き屋根であり、その持続可能性とそれによりもたらされる生物多様性を考えると、なんとしてでもこの文化を伝えていかねばならないなと、改めて心に想います。


さて、講義のその後は、おいしいお酒やご当地サイダーなどを囲みながら懇親会です。宴もたけなわ、予定されていた時間を二時間以上オーバーし、日付が変わるまで楽しく歓談しました。


翌日、若干にお酒の影響を感じさせる空気感のなか朝食を頂いた後は、集合時間まで快晴の空の下を散歩します。



白銀の峰々と白雲一つない青空に白い月が浮かんで、なんとも気持ちのいい朝です。


そしていよいよワークショップ二日目、茅葺き体験が始まります。



現場は、小谷屋根さんにより現在進行中の建物です。古材を用いて作られたシンプルな小屋の周りに足場がかけられ、そこに今回の参加者20名以上が登ります。



本日の体験研修では、小谷屋根の松澤敬男さん指導のもと、下から葺きあげる茅葺き屋根の、その一番下層の段階から始めます。これは茅が葺かれる前の屋根の下地です。



屋根の下地の最初となる屋根の際の部分には、茅を葺く前に麻殻(写真の黒っぽい茅のようなもの)を下層にすることで、降雪に強くします。その上に、茅を敷き並べ、さらにその上に長い竹を横に渡して縄で茅を抑えています。



その上に、少し上にずらした位置でまた茅を敷きならべ、縄でくくります。





そして、この上にまた竹を渡して、葺いていた茅の下に渡した竹と縄でとっくり結びをします。とっくり結びは、緩めるのは簡単ですが絞めると緩まり辛くなる結び方で、この結び方でもって茅を足で思いっきり踏み、その瞬間に結びを絞め茅を抑えていきます。

このような作業を繰り返して、茅葺き屋根が葺きあがっていくそうです。
今回のワークショップ時間内で葺きあがる規模の屋根ではもちろんないので、経験できたのはほんの一部分のみでしたが、茅の感触やこらされている工夫を現場で味わうことができ、大変な満足感でもって現場研修の部を終了しました。
最後に大きな一枚板に参加者全員の名前を書いて、それを完成したこの建物の中に飾っていただけるという粋な企画も。

その後、お昼休憩にておいしい信州郷土弁当ときのこ汁を頂いた後は、ワークショップ最後のプログラムである、茅葺き屋根の建物や小谷村の文化財の見学です。



茅葺き屋根を有する住宅。



多くの食料や生活品などが鉾ばれた塩の道「千国街道(越後路糸魚川~松本城下までの三十里)」において運上銭や人改めを行った場所「千国番所」

中に入ると、馬や牛、人が背負ってものを輸送した当時の様子が等身大模型などによって体感できるようになっています。




「旧千国家住宅」
ここは、上でも書いたように輸送した人や馬が寝泊まりし休むことのできる宿泊施設です。内部に馬用の広い土間があり、その上部にロフトのような形で寝室が設けられ、輸送人が馬の様子を近くで見ながら休むことのできる造りがとられています。



小谷屋根さんの葺いたとても美しい茅葺き屋根を心に残しつつ、ホテルに戻り、挨拶をもって、今回のワークショップは終了となりました。

素晴らしい環境と人々に囲まれて過ごした二日間はあまりにあっという間で、形容しがたい程複雑な郷愁感が、このワークショップの圧倒的な満足感をさらに実感させてくれたようです。


日本の後世に残すべき伝統技法である茅葺きの技術、それを現代以降において継承するのは、明らかに容易なことではないでしょう。その背景には、日本人が農耕や村単位での生活を捨てつつある現状があると感じます。

上記のように、茅葺きの屋根は農耕と密接に関係しています。その関係が失われつつあるであろう現代においては、茅葺き屋根の保全、活用は厳しいものであると予想せざるを得ません。

しかし、現代の都市環境を例にみると、無機質な材料で作られた集合住宅がカーテンもあけられないような密度で林立し、自分の周りにどのような人々が住み営んでいるかも知らず、隣人トラブルや犯罪がニュースに取り上げられています。また自分の体を形成する食料においても、どこでどのようにつくられたか分からない様なものを購入し、様々な薬品や添加物を知らずに体の中に摂取しています。
このような暮らしの先に、自然と人間との健やかな共生があるとは思えません。

茅葺き屋根は、人々がお金でつながっているのではなく、助け合いの心、相互扶助によって成り立つことを象徴するものであり、その地域がその地域単位で衣食住をまかなっているのだという底力、団結力の表れでもあると感じます。


茅葺き屋根は間違いなく現代における一般的な屋根とはいえなくなっていますが、需要は確実にあるようです。その需要はきっと、現代、特に都市環境における生活の矛盾さに違和感を感じる方や、田舎の暮らしを大切にされている方のものだと思います。そのような有機的な考えが現代に広がっていることは、薪、ペレットストーブなどの普及率などから見て取れます。あまりにも無機的にものを作り続けてしまった現代にも、その様な動きがあるのであれば、ローカル性を第一に考えねばならない造園という職業に勤めている身において、専門職ではなくともその継承の役割の一端を担わなければ、そのためには、屋根のみならず、農耕の仕組みから変革を起こしていかなければならないのでは、そう強く感じたワークショップでした。



年の瀬が近づいていることをひしひしと肌に感じますが、日中はまだまだ体を動かすととても暑くなります。今年は世界的に記録的な暖冬になる様で、例年以上に体温調節が難しい季節の変わり目となりそうです。
風邪やインフルエンザなども流行するこの季節、皆様も体調にお気をつけてお過ごし下さい。

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2015年11月 8日 日曜日

新潟出張




ブログをお楽しみの皆様お久しぶりです。
11月に入り千葉では柑橘類等の果樹が色づき始め、秋の終わりを感じ始める頃私達は新潟へ行ってきました。
新潟へ向かう道中紅葉の美しさや今降っていた雨が山を抜けると晴れ間が見えるといったような不思議な現象に普段生活している千葉とは空気感が全く違うのを肌で感じました。

今回訪れる現場は砂丘のマツ林の再生という事で、マツ林の一部を実験区域として先行で行い、その後の経過を他のマツ林との比較によって観察して行くというものです。




対象地のマツ林の中にはすでに枯れているマツもあったり他の耐潮性のあるエノキやニセアカシア等の樹種の潜入で負け始めているマツも多く、そこで優先し始めている樹木も刺が出る等、林の中に生活している樹木たちが苦しんでいる様でした。






場所が砂丘という事で何処まで掘っても有機物の無い完全な砂地で、近くを流れる阿賀野川河口域では砂が堆積して河口閉塞が進んでいるそうで、今もなお砂丘化が進んでいるという自然の力の強大さを肌身で感じました。




今も砂丘化が進む阿賀野川河口域では、今の現場がどういう風にできた土地なのかというのを肌身で感じる事の出来る場所で、阿賀野川河口域にできたひょうたん池と呼ばれる所も元々河川と繋がっていた所で砂丘化によってラグーンとなった場所なのですが海に近いこの場所に溜まっている水が淡水というのが驚いたのですが現場近くの砂丘の湿地帯でも田んぼが存在しているのをみるとこうしてできた湿地帯をうまく利用してきたのだと感じました。



海に程近いこの場所が何故淡水なのか、大河川の河口でありながら何故砂が積もるのかと疑問に思う方も多いと思いますが、そのカギを握っていたのが対馬海流でした。
河口を積もらせるほど一方的に強い海流なのかというとそうではありません、もちろん河川の影響も受けているそうで本来西から東へ流れるこの海流がこの河口付近で逆流する現象が見られ砂丘化や海水と淡水が混ざりずらいという不思議な現象が見られていて、時代を遡り江戸時代までは現在の阿賀野川河口域は塞がっていて物見山を迂回して信濃川に注ぐというこの地が元々本来の地形に戻そうとしているかの様な自然の力強さを感じました。





















さて我々が再生するマツ林はどのようにできた場所なのかもう少し砂丘を歩いてみたいと思います。
砂丘の地形を見てみると不思議な事に普段行っている水脈工事のように植栽地にはマウンドができ自然の谷と尾根が出来ていました。
植物を観察してみるとイネ科の植物が多く、飛散しやすい砂を捕まえて埋まっているようでした。これを繰り返す過程で有機物のあるマウンドになって行くのですがイネ科の植物の様に枯れたとしても稲の茎が空洞な為地上部に残る事で自然に砂の中の通気が確保されているという普段の水脈改善工事が行われているようでした。

今回のマツ林再生の工事もこの自然に習った水脈改善工事を行うのですが、マツ林に横溝による水脈改善と縦穴による水脈改善を施すと共にマツ林に空いたギャップに苗木の補色を行いました。
































施工前のマツ林の写真が無いのが残念でしたが施工後地形の起伏を作り風が吹き抜けるようになったのを感じ、林内に埋まっていた園路が再び顔を出すと施工後には林内の歩道を思わず歩きたくなるような空気感の変化を感じました。

今後水脈改善を行った事によってこの空間を始め周りへの効果も楽しみです。







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