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2021年4月 1日 木曜日
今までお世話になりました
みなさまこんにちは。
スタッフの松下です。
今回の投稿が、高田造園設計事務所での最後の仕事になります。
私事ですが、この度4年間勤めさせてもらった高田造園設計事務所を退職し、独立しました。
この場を借りて、私ごとを書かせていただける機会をいただけたことを感謝申し上げます。
私は4年前の2017年に入社し、今年まで4年間お世話になりました。
それまではごく一般的なやり方の造園業として8年、別の会社に勤務しました。
その8年の中で私は、「これからの雑木の庭」という雑誌で親方を知り、庭空間の写真を拝見し、その庭の空間構成に惹かれ、自分は将来このような空間を作れる造園家になりたいと思い、弟子入りしました。
親方の空間作りが好きで入らせてもらいましたが、入社してからは環境改善を交えた仕事、そのような現場に身を置いて作業を行い、その作業前後の様子を体感することで、樹木の配置などの空間構成にもまして大切なことに気づかせてもらいました。
私は独立したら、自分が手掛けていく空間は、そこに身を置く人にとって心から気持ちの良い、居心地が良いと感じてもらえる、そんな空間にしていきたいと思っていました。
今までは、それは木の配置であったり、石の配置であったり、陽の当たり方であったり、視覚から感じとれるもの、見た目から感じるものによって、決まっていくものだと思っていました。
ですが、高田造園で日々現場で体感を重ねると、その場に身を置くことで感じられる感覚的な気持ちの良さ、悪さの存在に気付くようになりました。
感覚的な心地良さ・悪さというのは、その場に身を置いていると、私達の視覚・嗅覚・触覚・聴覚・味覚が無意識に感じ取って、判断しているその空間から受ける印象です。
人は、その五感から受ける無意識の印象を総合して、その場を心地よい、悪いと判断しています。
鳥のさえずり、川の流れる音、虫の声、陽の光、葉の揺れる音、草の匂い、土のにおい、花の香り、落ち葉を踏みしめる音、花が舞い散る様。
このような自然からダイレクトに受けるメッセージのほか、
そこにいるとなんか暖かくてほっとする、
風が通り抜けると爽やかで気持ちが良い、
深呼吸すると空気が美味しい、
その場にいるとなんかワクワクする、
はぁと思わず声が漏れそうになる、
その土地がなんかしっとりと感じる。
「そんな時は大地が呼吸していて、植物・樹木・小動物・虫・菌類・微生物たちの生命の躍動を感じる。」
また逆に、
何となくこの場所にいると不快だ。
なんか嫌な感じがする。
なんか蒸し暑い。
ムッとする。
変な汗が出てくる。
乾いた感じがする。
荒れ地の感じがする。
地面がじゅくじゅくしている。
地面が底冷えしている。
など、
「そんな時は大地が詰まっていて、呼吸できないで喘いでいる。
苦しんでいる。
生命の躍動がほとんど感じ取れない。」
いつしか私もその空間に身を置くことで、そんな風に感じるようになりました。
環境改善の仕事を通して、その土地の呼吸を取り戻してやること。
つまり、その土地の、土中の水と空気の流れの滞り・詰まりを取り除いてやること。
様々な生命が育まれ、躍動し始める土台を取り戻してやること。
大地が呼吸し、すべての生命の躍動を感じ取れることが、詰まる所、人が無意識に感じている心地よさの源なので、今後はそれを自分の造園の核として取り組んでいこうと思う次第です。
風土工学の提唱者・佐佐木綱氏の景観十年風景百年風土千年―21世紀に遺す という著書のタイトルである、
「 景観十年、 風景百年、 風土千年 」 という言葉があります。
著書を引用しますと、
〝「景観が損なわれる」という言葉を耳にすることが多いが、景観とは壊されるもので十年間以上は定着しないもの。
そして、壊されずに残るものが風景といえ、さらに、評価が定着すると風土になるという意味である。
どこの地域でも新しい景観を造れば最初を良いなぁと思われるだろうが、その地域の個性というものを把握し、その個性に適した景観でないかぎり、その景観は色褪せてきて風景として後世に残ることは不可能だろう。百年残ってはじめて風景としての独自性を有することになるであろう。
風土が形成されるためには、風景よりも長い千年近くの年月を要するだろう。何世代にもわたる住民たちの祈り、思い入れ、願いといったものが蓄積されなければならない。″
景観は、今現在の私達の暮らしを反映するが、いずれ壊れゆくもの。
風景は、過去から今現在にかけての歳月を経て、その地域の独自性を帯びて、景色として定着したもの。
風土は、その土地の時間軸の中に、そこで生活を営む人々の歴史、文化が蓄積され、その心を読み取れるもの。
私達の日々の生活の営みが、いつしか時を経て、風土となり、そしてその土地に息づくことを考えながら、後世へと「景観」を「風景」として繋ぎ、育んでいかなくてはいけません。
そのためには単なる人間としてではなく、同じ大地の上で生きる全ての生き物の一つとして、生命の躍動に共奏していかなくてはいけません。
この地球に生きる造園家として、大地が息づき、生命のリズムが脈動する環境を作り出せるよう、更にはそれが私たち人間が感じる心地よさに繋がって、風景として残されていきますよう、精進していきたいと思います。
在籍中にお世話になったすべての方々に感謝、御礼申し上げて、これで最後とさせていただきます。
今まで本当にありがとうございました。
松下 智宏
スタッフの松下です。
今回の投稿が、高田造園設計事務所での最後の仕事になります。
私事ですが、この度4年間勤めさせてもらった高田造園設計事務所を退職し、独立しました。
この場を借りて、私ごとを書かせていただける機会をいただけたことを感謝申し上げます。
私は4年前の2017年に入社し、今年まで4年間お世話になりました。
それまではごく一般的なやり方の造園業として8年、別の会社に勤務しました。
その8年の中で私は、「これからの雑木の庭」という雑誌で親方を知り、庭空間の写真を拝見し、その庭の空間構成に惹かれ、自分は将来このような空間を作れる造園家になりたいと思い、弟子入りしました。
親方の空間作りが好きで入らせてもらいましたが、入社してからは環境改善を交えた仕事、そのような現場に身を置いて作業を行い、その作業前後の様子を体感することで、樹木の配置などの空間構成にもまして大切なことに気づかせてもらいました。
私は独立したら、自分が手掛けていく空間は、そこに身を置く人にとって心から気持ちの良い、居心地が良いと感じてもらえる、そんな空間にしていきたいと思っていました。
今までは、それは木の配置であったり、石の配置であったり、陽の当たり方であったり、視覚から感じとれるもの、見た目から感じるものによって、決まっていくものだと思っていました。
ですが、高田造園で日々現場で体感を重ねると、その場に身を置くことで感じられる感覚的な気持ちの良さ、悪さの存在に気付くようになりました。
感覚的な心地良さ・悪さというのは、その場に身を置いていると、私達の視覚・嗅覚・触覚・聴覚・味覚が無意識に感じ取って、判断しているその空間から受ける印象です。
人は、その五感から受ける無意識の印象を総合して、その場を心地よい、悪いと判断しています。
鳥のさえずり、川の流れる音、虫の声、陽の光、葉の揺れる音、草の匂い、土のにおい、花の香り、落ち葉を踏みしめる音、花が舞い散る様。
このような自然からダイレクトに受けるメッセージのほか、
そこにいるとなんか暖かくてほっとする、
風が通り抜けると爽やかで気持ちが良い、
深呼吸すると空気が美味しい、
その場にいるとなんかワクワクする、
はぁと思わず声が漏れそうになる、
その土地がなんかしっとりと感じる。
「そんな時は大地が呼吸していて、植物・樹木・小動物・虫・菌類・微生物たちの生命の躍動を感じる。」
また逆に、
何となくこの場所にいると不快だ。
なんか嫌な感じがする。
なんか蒸し暑い。
ムッとする。
変な汗が出てくる。
乾いた感じがする。
荒れ地の感じがする。
地面がじゅくじゅくしている。
地面が底冷えしている。
など、
「そんな時は大地が詰まっていて、呼吸できないで喘いでいる。
苦しんでいる。
生命の躍動がほとんど感じ取れない。」
いつしか私もその空間に身を置くことで、そんな風に感じるようになりました。
環境改善の仕事を通して、その土地の呼吸を取り戻してやること。
つまり、その土地の、土中の水と空気の流れの滞り・詰まりを取り除いてやること。
様々な生命が育まれ、躍動し始める土台を取り戻してやること。
大地が呼吸し、すべての生命の躍動を感じ取れることが、詰まる所、人が無意識に感じている心地よさの源なので、今後はそれを自分の造園の核として取り組んでいこうと思う次第です。
風土工学の提唱者・佐佐木綱氏の景観十年風景百年風土千年―21世紀に遺す という著書のタイトルである、
「 景観十年、 風景百年、 風土千年 」 という言葉があります。
著書を引用しますと、
〝「景観が損なわれる」という言葉を耳にすることが多いが、景観とは壊されるもので十年間以上は定着しないもの。
そして、壊されずに残るものが風景といえ、さらに、評価が定着すると風土になるという意味である。
どこの地域でも新しい景観を造れば最初を良いなぁと思われるだろうが、その地域の個性というものを把握し、その個性に適した景観でないかぎり、その景観は色褪せてきて風景として後世に残ることは不可能だろう。百年残ってはじめて風景としての独自性を有することになるであろう。
風土が形成されるためには、風景よりも長い千年近くの年月を要するだろう。何世代にもわたる住民たちの祈り、思い入れ、願いといったものが蓄積されなければならない。″
景観は、今現在の私達の暮らしを反映するが、いずれ壊れゆくもの。
風景は、過去から今現在にかけての歳月を経て、その地域の独自性を帯びて、景色として定着したもの。
風土は、その土地の時間軸の中に、そこで生活を営む人々の歴史、文化が蓄積され、その心を読み取れるもの。
私達の日々の生活の営みが、いつしか時を経て、風土となり、そしてその土地に息づくことを考えながら、後世へと「景観」を「風景」として繋ぎ、育んでいかなくてはいけません。
そのためには単なる人間としてではなく、同じ大地の上で生きる全ての生き物の一つとして、生命の躍動に共奏していかなくてはいけません。
この地球に生きる造園家として、大地が息づき、生命のリズムが脈動する環境を作り出せるよう、更にはそれが私たち人間が感じる心地よさに繋がって、風景として残されていきますよう、精進していきたいと思います。
在籍中にお世話になったすべての方々に感謝、御礼申し上げて、これで最後とさせていただきます。
今まで本当にありがとうございました。
松下 智宏