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2016年5月 5日 木曜日

縄文公園

ブログをお楽しみの皆様こんにちはゴールデンウィークはいかがお過ごしでしたでしょうか。
高田造園でも5月1日から休みが始まり早いもので5日の最終日を迎え早くも3日を経過してしまいました。
今回休日を満喫しながらもブログにあげる内容に迷いつつ今日を迎えてしまいました。
色々旅先の話等もしたいと思ったのですが今回は私の地元の加曾利貝塚公園の紹介をしたいと思います。



私の住む千葉市は縄文の遺跡の多い地域で千葉市を代表する加曾利貝塚公園以外にも荒屋敷貝塚、その他にも荒屋敷貝塚を中心とした貝塚が17遺跡もあります。
写真の赤い所が縄文遺跡の分布している所で特に千葉県の東京湾側に多く分布している事が解ります。



何故そのように千葉市が縄文遺跡の集中する場所であったのか、それは湾奥に位置していた千葉市は海退によって遺跡を移動していた。また当時玉川と利根川(当初現在の江戸川に流れていた)の2大河川から運ばれてきた堆積物が千葉市側に積もり遠浅の海の続くアサリ等の育ちやすい環境を自然に作っていたのだ。

現在ここ加曾利貝塚の側を流れる坂月側も縄文時代海抜が現在よりも10m高かった時代は大河川であり、東京湾からとれた貝等を運ぶ流路となっていた。



中でも私の地元にある加曾利貝塚公園は縄文時代を代表する国の遺跡として指定されており、現在約134.500㎡が保存公開されていて博物館を無料(1部有料)で見学する事が出来ます。
直径130mのドーナツ型に貝が積もった北貝塚と馬のひづめ型の南貝塚が一部で重なり8の字に見える日本で最も大きい貝塚で、北が主に5200年~4000年前、南が4400年~3200年前の縄文中期~後期にかけて栄えた貝塚です。



貝塚断面の保存施設では2m以上積もった貝の層を観察する事ができアサリやハマグリ、魚や動物の骨以外にも使われなくなった陶器等も発掘されています。
中でも興味深かったのは煮炊き用の縄文土器以外にも現在の急須の様な形の土器も発掘されていて主にお酒を楽しむ為の土器と思われるのですがその多岐にわたる土器の形やデザイン性にも驚かされるものがありました。



これはまた特別な時に使われたもので貝塚の中心部の広場で行われる祭り等の時に使われたと思われています。



お酒には主に野葡萄等が使われたと思われています。主に一回口で咀嚼してから発酵させて作ったのではないかと思われていて現在も味噌づくりで良く耳にする微生物による発酵に似ている様な気がしました。
人の手に付いている微生物によって発酵の仕方が変わる為、作る人によって味噌の味が変わる、縄文人のお酒も作る人によって味の違いを楽しんでいたのではないでしょうか。

貝塚の円周付近には多数建築後地が発掘されていて一部貝塚の中に住居跡地が見つかっています。



穴の後は柱が建っていた位置で何度も建て替えられている様子が伺えました。

また加曾利貝塚では縄文時代の縦穴式住居が復元されていて。その施設を無料で見学する事ができます。





穴を掘って柱を建て骨組を作るその上に土、カヤ等の屋根を葺いた建築は植物を利用して、編んだり組んだりするするだけの簡素なもので、我々現代の建築では薄れつつある植物材料の持つ有機的な居心地の良さを感じる事が出来ました。


現在も園内には緑や自然が多く残っています。復元とまではいきませんがクリやクルミ等縄文時代に利用されていたと思われる植物等が園内を潤わせています。千葉市にお立ち寄りの際もしくは千葉市にお住まいの方は当時の暮らしぶりに思いを馳せにきてみてはいかがでしょうか。

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2016年4月 4日 月曜日

梅に鶯、桜に幕

日中の暑さが春を通り越して初夏をも感じさせるようなこの季節、いかがお過ごしでしょうか。入社して早一年になります、石井です。
関東では桜が見頃を迎えていますね。先日の土日は天気が不安定でしたが、この週しかないとばかりにお花見に行かれた方も多いのではないでしょうか。



私もその一人でした。あまりぱっとしない場所の桜ですが、私が大学生だったころよく通りがかった少し思い入れのある駅前の公園の桜です。こんな地味な公園ですが、桜を見上げにわざわざ立ち寄る人、本格的な機材で花を背景に撮影を行っている人などが見受けられました。ここから多摩川をぶらぶら散歩して、川沿いの公園等に植えられた桜をのんびり堪能しました。

この季節、街路樹であろうと公園樹木であろうと、桜の花を愛でない人はいないでしょう。
しかし、落葉の時期になるとその葉を嫌がる方も多いようです。また、お花見の後のごみ問題が毎年ニュースで報じられています。

有名な法話に、
「花は枝によって支えられ、枝は幹によって支えられている。又、その幹は根によって支えられ、根は土によって支えられている。然し、その根は土にかくれて、何も見えない。咲いた花見て喜ぶならば 咲かせた根元の恩を知れ」
というものがあるそうです。この素晴らしい言葉は、先日の鹿児島出張の際に姶良土地開発の町田社長のご自宅の額縁に飾られておりそこで知ることができました。

ではその根は何を求めているのでしょうか。本来の自然環境において、おそらくそれは、自身が落とした葉っぱ(が分解されたもの)だと思うのです。しかし都市環境においては、それすらもかないません。

こんな環境下でもなお私たちを楽しませてくれるのだから、落葉や根上がりによる道路の破損などだけを見て街路樹を無下に扱うような対処をするのではなく、お互いが心地よい空間を造っていければ、そしてそれに寄与できるような造園家になれればな、と桜の花に想った次第でした。









本日(4月4日)は生憎の雨天。現場には出れないため、倉庫の掃除と、整理を兼ねて竹の穂で手箒を作りました。(そののちこのブログを執筆しています・・)
今週は雨が多いようで、桜も落ちるところは落ちてしまいそうですね。桜が週末まで持ちそうなところは、晴れそうな今週末がお花見日和と言えそうですね。幕引きになる前に、お花見をお楽しみください。


さて、今回も見学に訪れた造園空間の紹介をさせていただきたいと思います。

今回は、私の恩師である東京農業大学造園科学科の粟野隆准教授が、雑誌「庭NIWA」の今月号(no.223夏号)に寄稿しています「国際文化会館庭園」を先生自らが案内して下さる機会があったため、そのご紹介をしたいと思います。



国際文化会館は、日本と世界の方々の文化交流と知的協力を通じて国際相互理解の増進を図るために、1952年にロックフェラー財団をはじめとする様々な個人、企業の支援により設立された公益財団法人です。会員制の宿泊施設でもあり、レストランで食事や結婚式を行うこともできます。



庭園の全景です。(建物に対しては結婚式中のためカメラを向けられませんでした、そのため写真も微妙なアングルになりがちです。公式サイトを参考にしてください・・)

国際文化会館の建つ地は、江戸期には大名藩邸が置かれていましたが、以降所有者の変遷を経た後、三菱財閥四代目社長岩崎小彌太が購入、和館、庭園を造営しました。
小彌太は「外国の賓客を迎えられる日本式の邸宅を」と、建築を日本建築の大家である大江新太郎に、庭園を植治こと七代目小川治兵衛に依頼しています。そして当時植治にいた岩城亘太郎もこの造営に関わったとされています。



空襲により建物は消失してしまいましたが庭園は残り、三菱解体後、ロックフェラー三世と意気投合した国際的日本人ジャーナリストの松本重治が国際交流の場として強く提案、金策を巡らせた甲斐あって、戦後には当時の建築界の巨匠、前川國男、吉村順三、板倉準三の共同設計で様々な交流施設を秩序良く有する会館が新設されました。



石の寝かせ方、表現にいかにもな植治らしさを感じます。





池周辺。細かく細かく手が入っている樹木のバランスは、かの重森千靑氏の監修によるもの



二階部分の室内から。芝庭と柵の向こう、屋上のぎりぎりのところまで枯山水が・・くだらない心配ですが、砂利はこぼれないのでしょうか・・

式開催中の他、あまりにも人が多かったため、全体を把握できない写真配置で申し訳ありません。素晴らしい写真と解説、図面は前述の庭誌に特集されていますので興味のある方はそちらをご覧ください。



それにしても、庭園巡りなどが趣味の方はお分かりかと思いますが、特に東京都近郊の庭園には岩崎家の名前がそこかしこに出てきます。大名庭園を買い上げて保存したり自邸が文化財になっていたり・・それだけ財閥の力が強かったことを表していますが、僕自身岩崎家と関連する庭園遺産を整理してみたかったのでここに記してみたいと思います。コアなジャンルですが・・庭園巡りがお好きな方はご参考ください。



まずは初代社長の岩崎彌太郎。

写真の桜は駒込にある六義園のものです。桜のライトアップでも話題になるこの庭園は、江戸の五代綱吉の時代に林業政策でも高名な柳沢吉保が造営した池泉回遊式の庭園で、明治には彌太郎の所有となったのち、東京市に寄付され一般に公開されました。

そして同じく都内は江東区の清澄庭園も、江戸期に形作られ、のち荒廃した庭園を彌太郎が買いあげ、全国の石を配した名園「深川親睦園」として社員や貴賓に対して用いられていましたが、関東大震災において図らずも防災的な役目を果たし、その用途を重視した岩崎家が公園用地として東京市に寄付しています。ちなみにですが、初めてコンクリートが用いられた庭園ともいわれています。



二代社長の彌之助は、彌太郎の弟にあたります。箱根の現高級温泉旅館である「吉池旅館」に、その別邸が文化財として保存されています。水力発電発祥の場でもある他、茶室「真光庵」は江戸から受け継がれ、もう一つの茶室「暁亭」は山懸有朋が古希庵(小田原市、作庭岩本勝五郎)に建てたものを移築し館内に保存されており、広大なスケールの庭園は見どころいっぱいです。




彌太郎の息子にあたる三代社長の岩崎久彌は写真の「旧岩崎邸庭園」(台東区)を本邸として造営しました。
和館と洋館を併設するこの庭園は和洋併置式とも呼ばれ、洋館はジョサイア・コンドル、和館は当時の名棟梁大河喜十郎が手掛け、庭園は巨大な手水や燈籠、芝生等近代の初期の庭園の特徴を伺い知れます。



彌之助の息子の四代社長の岩崎小彌太は、上述の国際文化会館のほか、ツツジやシャクナゲが壮観の「山のホテル(箱根の別邸、建築にジョサイア・コンドル)」、「熱海陽和洞(別邸)」、「巨陶庵(京都南禅寺。現流響院。植治とその長男保太郎が作庭)」などに関与しています。


そして三代社長久彌の息子にあたる岩崎彦彌太は、東京は国分寺の殿ヶ谷戸庭園をかつて別邸として買い取っています。



こうしてみると、東京都近郊の文化財庭園における岩崎家の影響の強さがありありとわかります・・岩崎家が関与した庭園にテーマを絞っても面白いかもしれません。

しかし、近代の建築、庭園と言えばコンクリートであり、洋風と和風が混ざった(洋風に移行しかけている)様式である時代です。
石段や石積みを見てもコンクリートありきのもたせ方、積み方になっていたり、数寄屋建築で土壁の雰囲気を出しているのに大壁造であったり等、歴史としてみると面白いですが、気候風土や自然環境と寄り添ったデザインになっているかと言えば、近代あたりから道を違えてしまっている気がするのも事実です。



鹿児島出張の際に見学することができた古道は、雨水の処理や通気性などに有機的な工法で気を配っていました。
私たち造園家も、温故知新、近代土木と古代土木の融合を考えていかねば、自然環境の悪化にさらに拍車をかけてしまうことになりそうです。


早いもので、入社してから一年が経過してしまいました。
自分が漠然と抱いていた造園観を、厳しく正しく導いてくれる師のもとで勤められているのが光栄です。
おそらく現在の自分にとってどの企業よりも一番「よい」会社に入社できたと、胸を張って言えます。

初心を忘れず、見習いだと甘えず、これからも精進していきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

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2016年4月 4日 月曜日

桜満開

スタッフブログをお楽しみの皆さまお久しぶりです。椎名です。
春ですね。気温もあたたかくなり、大分過ごしやすくなってきた今日この頃ですが、皆さんはどのようにおすごしでしょうか?
私の住む地元千葉では週末至る所で桜が開花しており、いつの間にか咲いていた桜に何だが時間の流れの速さを感じながらも、ほっと一息つけた気持ちになりました。



撮影されたこの場所では桜木という地名もあってか小学校を中心に至る所で桜が保存されており高台に植えられた桜達はあまり人の手が加わらない状態で保存されていて、この時期地元民の憩いの場として浸しまれている場所でもあります。



植えられている樹木はソメイヨシノがメインですがこの近くの小学校ではヤマザクラ等も数多く見る事が出来ます。



写真手前のヤマザクラの木は日本の野生の桜の代表的な種で桜の仲間では寿命が長く葉と花が同時に咲くのが特徴です。
今ではソメイヨシノの植えられている数が圧倒的に多い為中々桜の名所と呼ばれている場所ではこのヤマザクラを見る機会が少なくなってきました。
個体によっては白っぽい花だったりピンク色が強かったりと均一でない自然の個性が美しい桜でもあります。
ソメイヨシノの花に目が行きがちですがお花見の予定のある方はヤマザクラも探してみてはいかがでしょうか。

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2016年2月29日 月曜日

輪となりて、環となりて、和となる

「土脉潤い起こる」土の中の水が流れ出すこの時期は新たな季節の始まりでもあります
大地に蓄えていたエネルギーが次々に地上へと放出されます

造園を初めて9年目私の手入れでの掃除は植栽した木々の根、下草、実生で生えてきた稚木、雑草、苔、表層にはびこる根、落ち葉、土、虫、鳥、地に這いながらこれらと同化して、会話をすることからはじまります

入ったばかりの頃は舐めるような掃除、落ち葉ひとつ残さず、際にたまった塵を手ぼうきで掃く、緊張感漂う親方のもと、こちらも緊張感のある仕上げを目指していました...
しかし最近は刹那的な清々しさではなく、内からくる心地良さ・安らぎとは何かについて考えながら庭掃除をすることが多くなった気がします

それは自分がまだ人と自然との"あるべきよう"を探しているから、大いなる自然が見せてくれる奇跡やメッセージを今の自分でしか理解することが出来ないもどかしさからくるものです...

久々に手入れに訪れたのは流山市にある保育園
竣工して数年、3.11東日本大震災がおこりました、放射能除去のため表層の土を削るという処理をされ、園内の駐車場は枕木からアスファルトへと改修されました
当時まだ細かった木々は着実に太く・大きくなりつつあります
どんな状況にも適応し、生長する木にただただ感動しつつも、従来の植栽・管理・掃除について思いを巡らせ、今の私たちができるこれからに繋がることをやらせていただきました...

樹木の剪定は、人・車・建物・樹木それぞれの生息・行動スペースに配慮した最低限のものにし、仕上げである表層の掃除は雑草は抜かずに刈り、地表の通気を促します。
落ち葉は残し腐葉土へと遷移をさせ土壌の浅い部分を這う樹木の呼吸層(水・空気とのバランスが良い層:A0層)、たくさんのバクテリア、菌類、微生物、土中小動物の生息域として維持していきます

この表層であるA0層、地圏(大地)と気圏(空気)そして地圏と水圏(水脈)この縦の線と横の線の交わりこそ私たちがまだ考えも及ばない希望が詰まっているはず...
そんなことを考えながら地に這い作業をします

震災時、雨樋や落ち葉は放射線量が高いからと前述のように表層を機械でさらう処理がなされました
しかし、なぜこの落ち葉、土化しかけた腐葉土に集中していたのだろう...
雨や空気中のものが飛来するのは当然なのですが、そもそも重力があって我々は土に足をつける、ありとあらゆる物質は重力がある限り土につき安定する...

1945年長崎・広島原爆投下全てのものが一瞬にして炭化し、多くを失ったあの日
たくさんの放射能、放射性物質が地上に降り注ぎ今もなお多くの傷跡を残します
原子爆弾を開発したアメリカの物理学者の多くは、被爆地は50年~100年は不毛の地となり、植物が一切生えないであろうと推測していました
ところが半年後、被爆した大地には雑草が生え、さらに数か月後には草花が咲き、木の芽が生じ、1年後には人が生活できるまでに放射線量が激減していたのです

これに驚いたアメリカの科学者はすぐさま現地調査、放射線は消えていたのです
このことに対し環境微生物学博士の高嶋康豪博士は「土壌内の微生物、または空中の微生物が放射能を基質として捉え、代と交代、置換と交換を行って放射能を分解消失したのである」と言われました

核実験の行なわれていたネバダ砂漠や、核事故の起きたチェルノブイリでは放射性物質、放射能の顕著な減少は見られません
これは、どちらも土中の菌類、微生物、バクテリアの数や種類が少ないためと考えられます
日本は温暖な気候と風土、なにより土中に絶えず流れる豊富で豊かな水のため、たくさんの好気性バクテリア、菌類、微生物に恵まれていたものと考えられます

さらにはるか大昔にタイムスリップ...地球の始まりについても46億年前地球は濃硫酸の海でした。そこにバクテリアが発生し浄化、今の命あふれる地球になったのです

大地が苦しんでいる時、命が悲鳴を上げている時、小さな小さなバクテリア、菌類、微生物たちは自然の営み、摂理にのっとった大いなる力で浄化、命の繋ぎ手として役を担ってきました

しかし、現代において町のお手入れに入ればご近所の方から落ち葉が...雑草が...などと言われることも少なくありません、落ち葉や雑草は我々の命を守ってくれているのに...

さらに懸念されることは大地がアスファルトやコンクリート、護岸整備、リニア、高速、新幹線...など人間の都合により山には穴が開き、木は切られ、地表は剥がされ、固められ、浄化してくれるはずの木や土の減少です

アスファルト化した町から土が消えることで大気の浄化がされなくなり、汚染されます
コンクリートジャングルの足元で行き場を失った土中の水脈は嫌気状態(呼吸できなくなり)になり、汚染物質を浄化してくれる好気性の菌類が減少、さらにミクロ団粒に閉じ込められていた嫌気性の菌やバクテリアが増大し地上に出てくるとき、未知の病気があちこちで発生しうるのです


最先端の科学、情報、経済、求めてきた道は本当に正しかったのでしょうか
人が自然の一部だということを忘れ走ってきた結果、受け継ぐべき過去の財産が損なわれ、かわって刹那的な快楽や便利さにすり替えられてしまった気がします

3.11からもう少しで5年、私たちは何に気が付けただろう、何を変えることが出来ただろう...

庭掃除の合間、土に帰ろうとする小鳥が横たわっていました
そっと木の根元に埋めます

土となり、木となり、大気となり、雨となりまた土にかえります
この絶対的な自然の"環"営みなくしては過去も今も未来もないのです



縦の線と横の線の交点を支えに生き物、植物、大地、海とがあり
水となり、命が生まれ、土となり、気となります

私たちはたくさんの輪の中にいて環の中でしか生きられません
それがすべての調和そして平和になるのかもしれません...



















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2016年2月14日 日曜日

根っこの拠りどころ

スタッフブログをご覧いただいている皆様、こんにちは。
またも更新間隔が大変に長く空いてしまい、年末から更新が滞ってしまいました。
ここ数日の、春風を思わせる暖かい空気に新年のあいさつを申し上げるには手遅れな時期とは感じるものの、本年も一年、よろしくお願いいたします。入社してそろそろ一年になります石井です。

今回は、昨月の半ばに参加した母校の見学会の際訪れた見学地のうちのひとつ、静岡は三島市、三島駅眼前の「楽寿園」のご紹介をさせていただきたいと思います。楽寿園は、明治維新の際もご活躍された小松宮彰仁親王が明治23年に別邸として造営されたもので、昭和27年からは市立公園として開園されています。



冒頭の写真は、楽寿園に入園してすぐの樹林帯の一区域を撮影したものです。クロマツやアラカシ、コナラなどが根を絡ませあい、お互いを支え合う様にして逞しく成長しています。カシやコナラなどが微地形上の起伏に支えあっている様子が、親方の植栽を思い起こさせます



楽寿園内の園路の様子です。上記の写真の部分のみならず、樹林帯全体が地表に根っこを逞しく張り巡らし、土壌を捕捉している様子が見て取れます。そして、その地形も、特異な様相の起伏がついています。これは・・



写真内看板の通り、そうです、この公園は、約一万年前の富士山の噴火の際に流出した溶岩、三島溶岩流が主たる地形を造っており、その上に実生あるいは植栽された樹木が160種以上生育しています。



上写真の中心部、円弧を描くような痕跡は、その様子の通り「縄状溶岩」と呼ばれる、溶岩の表面にできる流動しわ。



上写真の溶岩の表面、ブツブツとしている痕跡は「気泡」です。溶岩内の水蒸気やガスが抜けた跡ですね。
溶岩は固体化した様々な状態からその性質を読み解くことができます。この公園は、それらの特徴を知るのにうってつけです。



少し順序が逆になりますが、上の写真は入園口付近にある案内看板です。この園内で一番感心させられたといっても過言ではないこの看板。というのも、自分が立っているその地形がどのようにできたか、そしてそれを現在のどのような要素から読み解くことができるか、プレートの構造図や万年単位の地形の遷移図、平面、鳥瞰における図や周辺観光地との関係などを掲示し非常にわかりやすく説明しているのです。



この伊豆半島ジオパークの「ジオパーク」というものには、地域の地史や地質現象の地質遺産だけでなく、考古学的、生態学的、文化的な価値のあるサイトを含む場所が認定されます。この楽寿園には、上述しました溶岩流末端部のもたらした地形や地質の他にも多数の見どころ=ジオポイントを観測することができます。



崖上の建造物「梅御殿」下部の深池に見られる三島溶岩の石切り場跡もジオポイントと呼べる見どころのひとつ



北伊豆地震の際の傷跡が見える、大理石製の濡れ鷺型燈籠



中島から市の文化財「楽寿館」を望みます。楽寿館は京間風高床式数寄屋造りの建物で、地形に合わせた細かい段差と配慮のあることが特徴的なほか、室内に粋な演出をもって配置された装飾絵画は帝室技芸員(現在で言うところの人間国宝)6人を含む方たちの作品で、それらは県の文化財に指定されています(室内は撮影禁止のため写真がありません・・)



本園の大池「小浜池」は、溶岩間を流れる豊富な地下水を水源としていましたが、昭和30年頃の上流域付近の大開発に伴い地下水が減少。現在ではほとんど満水になることなくなってしまいました。しかし、数年に一度はその機会が来るとされ、最近では平成23年に満水となりました。
また、この視点場付近には二万六千年前に二つあった富士山の一つの頂が地震により崩壊し土石流(御殿場泥流)として流れ着いた玄武岩が用いられているとのこと



池の水のない庭園はあまり見られるものではありませんので、護岸や舟道の跡が見れると思えばこれも見どころの一つと言えそうです。

日本庭園的な部分を主に紹介してしましましたが、この公園内には動物ふれあい広場や資料館、蒸気機関車などが展示されていたり、全年齢のお客様が楽しめるように工夫されています。

しかしながら、木々の根っこの土壌化への影響力をまざまざと見せつけられる樹林帯と溶岩流や、その末端に現れる溶岩特有のデティールを活かした造作、数万年単位の地域性を感じさせる石材の転用など、恐ろしいくらいに土地を活かしていると感じた庭園でした。

デザインと呼ばれるものに求められる根拠、それは何を目的意識に置くかで見方が大きく変わるものではあると思いますが、その土壌を拠りどころにして根づいた植物が一番その土地に適応する様に、その土地の生物環境全体(施主含めて)が求める環境に近づけば近づくほど、造園的によい空間になるのかな、と楽寿園を見学し感じました。人間も他の生物なしでは生きていけないのは間違いなく、また造園という職能は、最も生物に触れる機会が多いと言い得る職能であると思いますので、出来うる限り生物の循環を乱さない様配慮していた方法を、現代より生物に触れあい暮らしていた昔から学んで、それをなんとか現代に生かしていこうと改めて思った次第です。

今年も一年、いい意味で悩んでいきたいと思います。よろしくお願いいたします!

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